夕彩

 紅雀に再会して、ひとつ気づいたことがある。

『あー、今日は無理だわ。ちっと野暮用でな』
 コイルの向こうは今日も騒がしい。くぐもっていてはっきり聞き取ることはできないが、拾われてくるのが複数の女の声であることは間違いない。どちらもよくもまあ飽きないものだ。
「野暮用」
『そう。野暮用』
 声だけでもどんな顔をしているか想像がつく。無駄に余裕たっぷりに笑っているのだろう。傍らの女たちに視線でもくれながら。
「少しくらい時間作れねーの? 来れないならおかず持って帰らせろって婆ちゃんが言ってんだけど」
 祖母のタエは島に戻って来たばかりのこの男の食生活が気になるようで、やたら飯に誘えと言ってくる。それもわざと作りすぎて。直接言えばいいものを、あんた電話しときなと毎回伝達を任されるのだった。おかげで声色で来るか来ないかがすぐにわかるようになってしまった。最初はふーん、なんか用事があんのかと鵜呑みにしていたが、何が野暮用だか。
『ん? あぁ、そうだな……』
 返事を待つ間、陳列棚の商品にハタキをかける。ここに目をつける客はほとんどいないし、掃除は毎日義務づけられていることではないので、大量の埃が舞った。棚板に積もっているのは無視して手を動かす。そこを拭き上げることはめったになかった。昨年末の大掃除の時ですら手つかずだったはずだ。
『オソウジ、オソウジ』
 すかさず近づいてきた凡人くんが着地した埃を掃き始める。待っては掃きを繰り返している姿がおかしくて、思わず頬が緩んだ。
『じゃあ取りに行くわ。お前バイト何時に終わんだ』
「俺? なんで」
『こないだ留守だったじゃねえか。タエさんコイル持ち歩かねぇし、いざって時に鍵持ってる奴がいなきゃ無駄足になんだろ』
「…………」
 時間を告げると、わかった、と返される。
『んじゃ、後で迎えに行く』
 通話を切り、埃を一番下の段まで払い終わると、徹底的に掃除をしたい衝動にかられる。まずは脚立とコンテナとバケツ、雑巾と箒の用意から。床を掃き続ける凡人くんをよそに、むずむずする鼻をこすりながら蒼葉は店の奥へ向かった。とにかく無心になりたい気分だった。
 


 給食から放課後までは、たいてい牛乳とにらめっこをする時間。
 冷蔵庫から出されて数時間、最初かいていた汗もすっかり乾いてしまったテトラパックが蒼葉の目の前に置かれている。パッケージに印刷された青い牛のイラストはいつ見ても可愛い。ただ、だからといって中身への苦手意識は変わらない。
 生の牛乳は苦手だ。ぬるいとなるとなおさら。もともと口の中に残る後味や匂いが好きになれないでいたのが、ぬるんで痛んでいた牛乳を飲んでおなかを壊して以来、進んで飲むことはなくなった。
 食べ物を粗末にしてはいけません。食べたくても食べられない人もいるんです。作ってくれた人に感謝して残さずいただかないといけません──先生の言うことはもっともだけれど、どうしても飲むことができない。他の子が嫌いなニンジンやピーマンは平気なのに。それをこっそり残している子もいるのに、居残りをするはめになるのは決まって蒼葉だった。
 パンが出る日はなんとかごまかして飲み干せるものの、今日のようなご飯の日は無理だった。三口ほどは飲んでみたが、それ以上口にする気になれなかった。見つめているだけでは減らないとわかっていて、それでも蒼葉はじっと牛乳を見ている。窓から差し込む光が色を変え始めていた。
「なーあ、ゆーれいってぎゅうにゅうダメなんだっけ」
「知らねーけど、ダメなんじゃん?」
「だってのんでないもんな〜」
 黒板の方から笑い声がする。ちらりと目だけ上げて、すぐに伏せた。いつもつっかかってくる男子だった。入学した時から同じクラスで、暇さえあればちょっかいをかけてくる。持ち物を隠されたり盗られたり落書きされたり、楽しみにしていたデザートを横取りされたり。
 ひどい時には髪を引っ張られたし、服を脱がされたこともあった。自分が男か女かわからないからだそうだ。わからないからなんだというのだろう。放っておいてくれたらいいのに。
 なぜか、蒼葉はいつまでたっても彼らの名前を覚えられないでいた。顔はおぼろげに○と△と□、そのくらいの印象しかない。
「明日おそなえしてみっか」
「いいなそれ。じょうぶつするかも〜」
「そしたら、教室明るくなるなぁ」
「…………」
 うつむいて腿に置いた両手をぎゅっと握る。くやしい。何か言い返したいのに、言葉が浮かばなかった。くやしくて、体がぶるぶると震えた。目の奥が熱くなる。
 蒼葉は学校ではほとんど喋らない。慣れない相手だと話し方がたどたどしい上にテンポが遅く、時には脈絡もないので、会話が成り立たないことが多いからだ。話したい意志はあるのに、いざそうしようとすると頭の中がぐちゃぐちゃになってうまくいかない。
 最初は笑顔で話しかけてきてくれた子たちも蒼葉の反応を気味悪がったりイライラしたりして、すっかり遠巻きにされるようになってしまった。蒼葉をもてあましている先生も、しょっちゅう困ったような呆れたような顔をする。
 そうして、蒼葉はまともに喋れなくなった。むやみに動き回るとみんながそわそわするのがわかるから、教室では小さくなっていなければならなかった。口を閉ざし、心も表情も動かさないようにして、置物のように自分の席に座っているのが常だった。
 どうして自分は、周りの子のように普通にふるまえないのだろう。迷路のような机の木目を目でたどりながら、いつもそればかり考えている。──家ではちゃんと、ばあちゃんと笑ってしゃべれるのに。「おともだち」とだって。
 学校へ行きたくないとは決して言えなかった。言えば、祖母は必ず心配する。自分はただでさえ面倒くさい子供なのに、迷惑をかけるのは嫌だった。それに、いじめられていると知られるのも怖かった。いらない子だと思われるのは、怖かった。
 こぼれそうになる涙を必死にこらえる。泣いたらいけない。まけるな、と言われたから。
 でも……
「蒼葉」
 その時、後ろの扉から見知った顔がひょいと現れた。さらりとした長い黒髪をひとつに束ね、赤い着物に身を包んだ細身の少年は、蒼葉を見つけるとふっと笑った。
「やっぱりまだ残ってた」
「こうじゃく」
 なんの違和感もなく声が出る。蒼葉の表情がぱっと明るくなり、頬に赤みがさした。同時に、また残されている自分が恥ずかしくてもじもじする。紅雀はきっと呆れただろう。
「あーおば。帰ろうぜ」
 大股で近づいてきた紅雀が、蒼葉の様子にはおかまいなしでそう言った。
「おまえひとりで帰れよ、バカこうじゃくー」
「そうだそうだ。まだそいつ帰っちゃダメなんだからな」
「ぎゅうにゅうのまなきゃ帰れねーんだから」
 傍らから飛んでくる声に、紅雀がふと冷えた視線を送る。同級生に比べて頭ひとつ抜けているから、紅雀の身長は蒼葉にしてみればずいぶん高い。その高さからあんな目で見られたらきっと怖いだろうと思った。
「お前らこそさっさと帰れ、へったくそな絡み方しやがって。そんなんで蒼葉に伝わるわけねーだろ。なあ?」
 話をふられたが、意味がわからない。少し意地悪そうな顔をしている紅雀を、蒼葉はきょとんと見上げた。普段誰にでも優しいはずの彼は、この三人組にだけは容赦がなかった。
「──う、うるせーよっ」
「かっこつけてんじゃねーよバカ!」
「ムカつく!」
「そりゃあしょうがねえわー。俺かっこいいもんなあ」
「……!!」
 わりいわりいとからっと笑ってみせる紅雀に一瞬ひるんだ三人は教卓に置かれたカバンを乱暴に手にし、口々に汚い言葉を並べたてながら足音も荒く教室を出て行った。後にはにやにやしている紅雀と状況についていけない蒼葉が残される。
「あいつらバカだよなぁ……ほんと学習しねえバカ」
 蒼葉の前の席の椅子を引いて、紅雀が腰を下ろす。小さな椅子は体の大きい紅雀には少し窮屈そうだった。蒼葉はあわててテトラパックに手を伸ばした。手にとったもののストローをくわえる勇気が出ない。さっき飲んだ時は普通の味がしたけれど、口をつけるまで変な味がしたらどうしようといつも怖くなる。
「なんでわからねぇんだろ。そんなに難しいことかな」
 しみじみ呟いて、紅雀がじっと見つめてくる。黙って見返すと、紅い目が優しく細められた。つられて蒼葉もふにゃっと頬をゆるめる。すると手が伸びてきて、指先で軽く頬をつつかれた。二人きりの時の紅雀の癖だ。指が触れたとたん、蒼葉はきゅっと目を閉じた。やわらかくて気持ちいいから触りたくなるというので黙っているけれど、本当は少し気恥ずかしかった。そうされると、蒼葉は落ち着かない気持ちになる。
「なんか変なことされなかったか?」
「だいじょうぶ」
 もうどれくらい前になるか。ある日の放課後、三人組に追いかけられて公園の芝生でもみくちゃにされていたところを助けてくれたのが紅雀だった。それからも何度か似たようなことがあって、そのたび紅雀が来てくれた。おかげで最近はめったに近づいてはこず、さっきのように少し離れた場所から当てこすりを言ってくるばかりになった。
「そっか。よく泣かなかったな、えらいぞ」
「紅雀が、来てくれたから」
 出会って以来、どういうわけか蒼葉がいじめられている時や困っている時には必ず紅雀が現れる。たまたまだと本人は言うけれど、蒼葉にとって彼は日曜朝になると会えるテレビの中のヒーローと同じだった。テレビと違って、毎日だって会えるヒーロー。
「蒼葉ががんばったからだろ。もう少しがんばって牛乳飲もうな」
「……うん」
 助けてくれるだけでなく、紅雀は蒼葉の言動をよく見ていて、小さなことでもすくいとってねぎらったり褒めたりしてくれる。無理に気を遣われているんじゃないとわかるから、紅雀の言葉が嬉しかった。紅雀が言うならがんばってみようと思える。これまで優しくしてくれる人が全然いなかったわけではないけれど、家族以外でここまで自分と向き合ってくれる人には会ったことがなかった。
「でかくなりたいならがまんしないとな。お前小さすぎるし細すぎだし、だから変なのに目つけられんだよ。女みたいだって言われるのむかつくだろ」
「……むかつく」
 首筋や手首に紅雀の視線を感じる。蒼葉はむっとして上着の襟を引き上げた。紅雀も最初、自分のことを女の子だと勘違いしたのだ。男だとわかった時の複雑そうな顔が忘れられない。びっくりと、がっかり。今もそう思われていないだろうか。
 早く大きくなりたい。大人になりたい。普通に人と話せて、笑って、なんでもない一日を紅雀と過ごせるような。
 そうなるには、こんな牛乳ひとつに怖じ気づいている場合ではないのだ。……けれども。
「よし。じゃあ負けず嫌いの蒼葉にごほうびな。俺、今日いいもの持ってんだ」
「?」
「ほら」
 手にしていた風呂敷包みから取り出されたのは、様々な形にくり抜かれたクッキーだった。生地をそのまま焼いただけらしい素朴なつくりのそれは手のひらに収まるくらいの透明な袋に入れられ、ドットがプリントされた水色のリボンがかけてある。わあ、と口を開いた後、蒼葉は眉間に皺を寄せて紅雀を見た。
「……学校におかしもってきたら、だめだよ」
「調理実習で作ったやつだからいいんだって」
「紅雀が?」
「クラスみんなでな。楽しかったぞ〜」
 いいなあ、と思った。紅雀はクラスの人気者だ。かっこいいから女の子にモテるし、けんかに強くて男子にも一目置かれている。学校にいる間、蒼葉から離れたところではいつも誰かに囲まれて笑っている。だから、わざわざ自分に構ってくれるのが不思議だった。嬉しいけれど、学年もちがうのにどうしてなのかなあ、と思っていた。祖母と紅雀の母親に縁があって、時々みんなでごはんを食べたり出かけたりしているから、そのおかげなのかもしれない。
「俺がくり抜いたやつ、他の子と交換しちまったからこれしか残ってないんだよ。ごめんな」
 袋を開けて、紅雀が星の形をしたものを一枚渡してくれる。手のひらの中の星を眺めて、蒼葉は目を輝かせた。
「おれ、星だいすきー」
「食っていいぞ。他にもあるから。これで牛乳飲めるだろ」
「うん! ありがと、紅雀!」
 笑って食べようとして、ふと蒼葉は手を止めた。首をかしげ、つまんでいる星を見ながら表情を曇らす。
「どした?」
「……食べたら、なくなっちゃうよ」
「そりゃそうだろ」
「…………」
「蒼葉?」
 途方にくれたような蒼葉の顔を覗き込み、ああ、と心得たように紅雀が苦笑した。
「食べてくんねぇの? 蒼葉に食べてほしくてとっといたんだぜ」
「……おれ?」
「そうだよ」
 ひょいとクッキーをつままれ、口の前に差し出される。すらりとしてきれいな指が蒼葉の視界に映った。
「あーおーば。あーん」
「え、」
「ん?」
 指をもじもじ組んだりほどいたりしていると、紅雀がにっこり笑う。クッキーで唇をつつかれ、蒼葉は仕方なく口を開けた。ゆっくりと押し込まれたそれがかつんと前歯に当たる。紅雀が手を離さないので、もう少し大きく開けると、全部を口に入れられてしまう。勢いで紅雀の指も口の中へ入ってきた。
 あ、と思ったものの、止めようがなくクッキーごと含んでしまう。ちらりと目を上げたが、紅雀は笑みを浮かべたまま何も言わない。ひやりとした指が粘膜に触れるのに、蒼葉はやけに緊張した。すっかり口におさめてしまうと、指の腹が下唇の内側をめくるように撫でてようやく離れていった。ほっとした。
 クッキーは蒼葉がひと口で食べるには少し大きくて、口の中がいっぱいになってしまう。星の突起が頬の内側に当たってごつごつする。なんとか歯が当たったところを噛むと、紅雀は満足そうな表情を浮かべる。
「うまいか?」
 噛むたびにさっくり崩れて、甘さが広がる。夢中で口を動かしながら頷くと、紅雀はそうかと嬉しそうに笑った。自分もクッキーを一枚口に入れ、ざくざく噛んですぐ飲み込んでしまう。いっぱいかまないとおこられるよと言いたかったが、まだ飲み込みきれないので、蒼葉は視線だけで紅雀を咎めた。
「のど乾いた。ひと口もらうな」
 気づいたのかどうか、紅雀が蒼葉の手からテトラパックを取り上げ、ストローに口をつける。
「思ったんだけどな。牛乳、どうしても学校で飲むのが無理そうな日は持って帰ればいいんじゃね? 先生に頼んでみろよ」
「……でも、のんで帰らなきゃだめって」
「どうせ下校時刻まで飲めなきゃ持って帰らされんだろ。先生はさあ、蒼葉はココアなら飲めるとか、クリームシチュー好きだとか知らないよな。全然飲めない、嫌いなんだって思い込んでるからそう言ってるのかもしれない。家でなら飲めるんだって一度言ってみな?」
「あ」
 そうか、と思った。祖母は基本的に好き嫌いを許さないが、おなかを壊して以来家では無理に牛乳を飲まされることはなく、おやつに出てくるにしても必ず何かが混ぜてあったりと口にしやすい工夫をしてくれていた。そのままの味でなければ、飲むこと自体は平気なのだ。理解してもらえれば、こんな風に紅雀をいつまでも待たせずにすむかもしれない。
「できるもんなら居残りなんかさせたくないだろうし、大丈夫だと思うぜ。夏場はちょっと難しいだろうけどさ。言いづらいなら俺が言ってやろうか?」
 蒼葉はあわてて首を振った。
「──ううん。おれ、自分で言ってみる」
「そっか。がんばれな」
「紅雀はすごいなあ」
「ん? そっかあ?」
「だっておれ、ぜんぜん思いつかなかった」
 ひと口と言ったのに、紅雀はまた牛乳を飲み始める。テトラパックがどんどんひしゃげていくのがわかったが、紅雀の提案に軽く興奮していて、つい意識の外へ追いやってしまう。
「すごいし、かっこいいし、……」
「お前ほめすぎ」
 紅雀が指で軽く額を弾いてくる。──だいすき、という言葉は飲み込んだ。なんとなく、言わない方がいい気がして。ずるずると音がして、蒼葉ははっとする。
「あー、悪い。飲みすぎた」
 真ん中がへこんだテトラパックが振られてからからと音をたてた。蒼葉が飲むはずだった牛乳が、すっかりなくなってしまっている。
「紅雀……」
「怒られっかなー。まあいいか、たまには」
 いたずらっぽく笑って、帰ろうかと言った。いつもは全部飲むまで待ってくれるから、わざとなのか違うのか、蒼葉にもわからなかった。
 わからないけれど──すごく、うれしかった。



 紅雀の話は、たいてい毎日のクラスでの出来事だった。特に自分から振る話題もないので、蒼葉は黙って聞いている。モテるせいか全体的に女の子の話が多かった。今日は紅雀のクッキーをめぐってちょっとした争いが起きたらしく、それをどう収めたかを面白おかしく話してみせた。普通なら自慢になりそうなのに、そんな風に聞こえないから不思議だ。紅雀が悪びれないからだろうか。
「紅雀は女の子だいすきだね」
「そうだなぁ。だってかわいいだろ。男は女を守ってやらなきゃいけないしな」
「…………」
 おれのことは、なんでまもってくれるの。女の子じゃないのに。
 そう思う時、いつも胸が痛くなる。うれしいのとくやしいのとで。なので、あまり考えないようにしていた。つないだ手を、蒼葉はぎゅっと握る。
「だれが一番すき? みゆちゃん? まゆりちゃん?」
「え」
「顔がすきなのはかなみちゃんで、むねがおっきいのはきりなちゃんって言ってた。だれが一番いいの?」
 そう言うと、紅雀は面食らったような顔をした。
「……よく覚えてるな」
「いつも聞いてるし。だれ?」
「誰っていっても……すぐには決めらんねぇよ。どの子もまだ知らないとこいっぱいあるしな。見た目だけじゃわからないことってあるだろ。ほら、蒼葉がこんなかわいい顔して、いつもはおどおどしてばっかりなのに俺の前じゃけっこうはっきりもの言うこともあるのとかさ。こうやってつきあってみないとな」
「きまるまで、いっぱいつきあうんだ?」
「かもなぁ。それに、いろんな子が俺のこと見てんだってわかったら、ひとりだけなんて見てられないだろ? みーんな相手してやりたいって思うんだよ」
 蒼葉は首をかしげる。紅雀のこういうところはよくわからなかった。誰にでも優しいし困った人間を放っておけない性格だけれど、それは何か違う気がした。もやもやを振り払うように下を向くと、口を開いた。
「ばあちゃんが、紅雀は今に女泣かせになるって言ってたよ」
「……タエさんひでえなあ」
「──蒼葉は女の子じゃなくてよかったって、言われた」
 ぽつりとこぼす。この間テレビを見ながら祖母に何気なく言われたことだ。大人の男女がけっこんするのしないのと言い合っていて、男の顔がなんとなく紅雀に似ている気がすると蒼葉が言って、そんな流れの言葉だった。けっこんは男と女がするものだということを、その日初めて知った。なぜかその後、蒼葉は布団の中で泣いてしまった。女の子はずるい。そう思った。
「俺、すっげー信用なくね? 蒼葉のことはちゃんと大事にするって」
「だいじ?」
「うん。傷つけたり泣かせたり、蒼葉には絶対しないから」
 紅雀は嘘をつかない。蒼葉に優しくなかったことなんてほとんどない。だから、蒼葉が紅雀のことで泣いたり傷ついたりするのは、自分が勝手にやっていることだった。紅雀が知らなくてもいいこと。知られたくないこと。
「……あのさ。おれは女の子じゃないから、けっこんとかできないから……、おれ、紅雀の一番のともだちになるな」
「そっか。ありがとな、蒼葉」
 紅雀が笑った。いつか紅雀が誰かと一生をともにすることになっても、友達ならそばにいられるだろう。なんでもいい。一緒にいられるなら。離れずにすむのなら。
「蒼葉」
 こんな風に、名前を呼んでくれるなら。
「なあ、空すげえきれいだな」
 紅雀が立ち止まった。蒼葉も揃って見上げる。小さな橋の途中、暮れ始めた空がいつもとは違う色に染まっている。昨日はくっきりとしたオレンジだったのに、今日は薄い桃色が混じって複雑な彩りをみせていた。
「この島って、どこもきれいだよなあ。空も海も山も色がくっきりしてて、大好きなんだ」
 プラチナ・ジェイルによって、島の人々がじわじわとそれまでの居住区域から追いやられ始めた頃だった。蒼葉が物心ついた頃にはまだ広かった島の空は建て増された家やビルに少しずつ切り取られてきていた。それでも、まだ見渡せる場所はたくさん残されていた。
 眩しそうに目を細めた紅雀の横顔が空の色に照らされている。あったかくてきれいだな、と思った。このままずっとこうしていたかった。家になんて着かなければいいのに。
 そんな蒼葉の気持ちには気づかず、紅雀が手をひく。そうして、とうとう家の前まで来てしまった。
「蒼葉、じゃあな。また明日」
「うん……──ばいばい」
「タエさんが帰るまで、ちゃんと家で待ってろよ」
「…………」
 まだ帰らないでほしい。
 そう言いたかったけれど、紅雀が困った顔をする気がして言い出せなかった。
 笑顔で手を振る紅雀が背を向ける。遠ざかるにつれ、影が長く伸びた。
 ほどかれた手を拳にして、蒼葉は影を見つめる。この影を踏んだら、紅雀が動けなくなって、帰れなくなるといいのに。ふとそう思った。
 そっと片足を上げて動いていく影を追う。
 ──この影を、踏んだら。



『蒼葉! なーにしてんだテメェ! 信号変わっちまうだろ!』
 けたたましい声ではっと我に返る。正面に見える歩行者用信号が点滅し始めていた。あわてて横断歩道を渡りきった蒼葉の周りをベニが飛び回る。
『ぼさっとしてんじゃねーぞ!』
「悪い」
「なんだよ。考え事か?」
 腕組みして佇んでいた紅雀が怪訝そうに訊ねてくる。その肩にばさりとベニが止まった。
「あー、うん……いや、なんか空が、前にも見たことあったかなーって、懐かしいっつか」
「──あぁ。学校帰りによく見たっけな、こんな夕焼け」
 今日はいっとうきれいな気がすんな。暮れかけた空を仰いでそう言う幼馴染みの横顔は、面影さえ変わらないけれど昔とはずいぶん違う。少し日焼けして輪郭の丸みが削られ、長く伸ばした前髪で顔の右側を覆い、鼻骨を横切るような傷が入った。目つきもあの頃より複雑になった。同じように微笑んでいても感情を読み取れない時がある。今、何を考えているのだろう。
「しっかし、だいぶ空が狭くなっちまったなあ」
 歩き出しながら視線を投げた先にはプラチナ・ジェイルがある。折り重なってもはやオブジェと化している木材やコンクリートの建物に遮られ、ここからは高くそびえている壁さえ見えない。見えない方がいいのかもしれないが。
「ガキ共はこんな眺めしか知らねぇんだよな。……嫌んなるな」
 とっさに店の近所に住む子供たちのことを思い出す。あの悪ガキ共は空の見え方なんて気にもしていなそうだが、本当のところはわからない。紅雀の一歩後ろを歩きながら、蒼葉はカバンから覗いている蓮の頭を軽く撫でた。
「紅雀さぁ……俺といて、なんかの拍子に昔こういうことあったなーとか思い出すことあるか?」
「ん? そりゃもちろんあるさ。今までもお前のこと思い出すことはあったけど、戻って来てからの方が多いかもなぁ」
「……あっちでも俺のこと思い出したりとかしたんだ」
 目を見開く。意外そうな声音が引っかかったのか、紅雀が振り返った。歩く速度をゆるめて肩を並べてくる。
「あるよ。当たり前だろ」
「変なの」
「おかしいことなんか何もねぇだろ。大事な思い出なんだから」
「ふーん……」
 本土での紅雀の生活についてあまり深く訊ねたことはなかったが、てっきり自分のことなど忘れて楽しくやっているものだと思っていた。再会して、紅雀の姿を見るまでは。
 ──ああこれ、色々あって下手打っちまってよ。あちこちに刻まれた傷と刺青に釘付けになった自分に、紅雀はなんでもないように笑ってみせた。ま、こんなアクセントくらいねぇと男前すぎて嫌味だろ、とひと言余計だったけれど。
 やんわり釘をさされた気がして、本土で何があったのかとは訊けなかった。タエも口をつぐんでいたし、今みたいに会話の中に少しだけ混ざる以外に紅雀は何も話そうとしないから、それきりうやむやのままだった。必要になれば向こうから話してくれるだろうと黙っておくことにした。
 正直、紅雀が島に戻って来るとは思っていなかった。いなくなってからは一度も連絡はなかったし連絡先を教えてもくれなかったから、きっともう会えないのだと言い聞かせるしかなかった。紅雀は自分に会うつもりはないのだと。島を出ることで、繋がりは断たれたのだと。泣いてたって紅雀には会えないよとタエに言われたが、泣かないでいれば会えるとも言われなかった。だから、蒼葉は思ったのだ。二度と会えないのなら、…………、
「?」
 会えないのなら──なんだろう。
 ──苦しいですか?
 ──消しゴムを……られたらって…………ってましたよね。
「……?」
 何か聞こえた気がして、両耳に手を当てる。この声を知っている。誰だったろうか。
 しかし、どれだけ凝らしてみても、聞こえてくるのは喧噪ばかりだった。かすかに頭痛の気配がした。
 やめよう。目を閉じて、蒼葉は思考を塞き止めた。



「すげぇな」
 冷蔵庫に入っていた総菜は思いのほか多かった。きんぴらやらつくねやら、肉と野菜と魚がタッパーにして大小五つ。ビニール袋に詰めてやって、玄関先で待っていた紅雀に手渡した。相手にとっても予想外だったようで、受け取りながら苦笑される。
「全部冷凍できるやつだから、分けて食えば」
「そうすっかな。いやー、食い終わるまでここ来れねえなぁ」
「別にいんじゃね」
 こいつはこれをひとりで食べるのかな、とふと思った。どうだろう。
「ありがとな。タエさんにも礼言っといてくれ。また寄らせてもらうわ」
 ひらりと片手をあげて、紅雀が踵を返す。あの頃より広くなった背中が同じように遠ざかり、影が伸びていく。玄関の引戸に手をかけた蒼葉は影の先端をじっと見つめた。
 紅雀に再会して、ひとつ気づいたことがある。
 自分の記憶からはところどころ紅雀との思い出が抜け落ちていて、こうして同じ時間を共有するうち、ひとつ、またひとつと戻ってくることがある。
 忘れているのとは違う。くり抜かれて穴が開いているというのが一番しっくりくる気がする。紅雀が島を去った日のことだとか、今日みたいにふたりで夕焼けを眺めた日のこと。牛乳のこと。紅雀の存在自体を忘れていたわけではないから、しばらく気づかなかった。
 喧嘩が原因で入院した十代の頃、前後の記憶が途切れて曖昧になってしまったことがある。そのせいかと気になってタエに訊ねてみたが、生活には支障がないしとるべき対策も思い当たらないから、結局宙ぶらりんのまま放置されている。
 パズルのピースのように胸にぱちりと嵌まる思い出の数々は、時折蒼葉に違和感をもたらした。自分は本当に、紅雀とこんな時間を過ごしただろうか。感じているのは、本当に自分の気持ちだったものなのだろうか。……こんな、胸が締めつけられるような。
 ──この影を、踏んだら。
 いや、違う。そうじゃなくて……、今なら、今の自分なら。
 頭をひと振りし、気づいたら、足が勝手に着流しの背中を追っていた。突然の足音に紅雀が何事かと言いたげな顔で振り返る。目が合ったと思ったら、紅いそれが見開かれた。
 どうしてなのか──そこへとっさに、蹴りを放ってしまっていた。
「!?」
「あ」
 あれっ、と思った時にはもう、引っ込みがつかなかった。蒼葉の足はそのまま、紅雀の背中めがけて飛んだ。頭が真っ白になった。
「……っ!」
 幸い、そこは現役で喧嘩慣れしている紅雀が一枚上手だった。素早く反転して空いた方の腕を上げ、蒼葉の足を受け止める。喧嘩の時のような本気の蹴りではないとはいえそれなりの衝撃があったようで、体をぐらつかせた。体勢を立て直したところで、驚きと怒り混じりの目が向けられる。いつにない鋭さにぎくりとした。
「いって、……蒼葉てめぇ、何してくれてんだよ……」
「いや、あの……、えっと……なんでだろ……?」
 じりっと迫ってくる紅雀に怯み、後ろに下がりながらしどろもどろに答える。背中がブロック塀に当たった。逃げ場がない、そんな気がした。
「あぁ?」
「……わかんなくて。自分でも」
「…………」
 納得がいかないと言いたげに不愉快そうに眉を寄せるのに、蒼葉は息をのんだ。
『蒼葉ァ、おめぇやるじゃねーか! すっとしたぜ!』
 いつの間にか紅雀の肩から離れていたベニが羽ばたきながらしきりに囃し立ててくる。目を眇めた紅雀は慣れた手つきで小さな体を鷲掴みにした。引き寄せてひと睨みする。
「ベーニ」
『何すんだ! 放せやコラ!!』
「黙っとけ、つってんだ」
『…………』
 小さな舌打ちの後、ベニはむっつりと黙り込んだ。ふんと息をついて、眉を寄せたままの紅雀が向き直る。
「蒼葉」
「──ごめん……、ごめんなさい……」
 うつむくと、自分の爪先が見える。混乱で視界が歪むような錯覚を覚える。目の奥がつんとしてきた。
 怒らせたいわけではなかった。怒らせてしまった。じゃあなんだろう。どうしたらいいかわからない。こんな時、自分はどうしていたのだったか。
 そう考えて、これまで紅雀が自分に対して怒りを向けたことなどほとんどなかったことに気づいた。ごめん、と繰り返す蒼葉の耳に、ため息が届いた。
「顔上げろ。ったく……俺がいじめてるみたいだろ」
「紅雀、痛かった……?」
「大したこたあねえよ」
 それより、と紅雀が続ける。
「蒼葉。なんかあったか?」
「…………」
「俺に何か言いたいことがあったから蹴ったんじゃねぇのか? 話したくねえなら別にいいけどよ」
 立ち尽くして黙り込む。言いたいことは、あるにはあった。蹴るのではなく、言葉にして紅雀に伝えるべきこと。でも、言う気にはなれなかった。言ってどうなるのだろう。自分でも整理がつかないし、紅雀を困らせるだけだ。思ったままを話せばきっと引くだろう。それでどうしたいんだと問われたら、答えられない。
「──今度、飲みにでも行くか。二人で」
「へ?」
 なんだいきなり。拍子抜けしたが、紅雀は至極まじめな顔をしている。
「どうするよ」
「……きれいなおねえちゃんのいる店以外なら」
「お前なぁ、それがいいんじゃねえか。癒されるぞ〜〜。やなことも一気に忘れられるしよ」
 含みのある顔で紅雀が笑う。行ったことねえの? 問われて、首を振る。
「あるっちゃあるけど、そこなら行かない」
「わかったわかった。じゃ、また連絡する」
 今度こそ振り返らずに、影を連れた紅雀がゆったりと去っていく。鷲掴みにしたままのベニに何事か言っているようだが、聞き取れなかった。角を曲がって消えてしまうまで背中を見送った。



 大したことじゃない。どうしてこんなことが引っかかっているのか自分でもわからない。
 数日前のことだ。明け方に喉の渇きを覚えて目を覚ました。冷蔵庫には牛乳しかなく、炭酸を飲みたい気分だった。蓮を起動し散歩に誘った。自販機をはしごして結局辿り着いたのはコンビニだった。もう空が白み始めていた。つい雑誌に手が伸びてしまい、蓮の小言を受け流しながらページをめくったところで──ガラスの向こうを紅雀が横切った。女連れで。
 顔は覚えていない。さらさらと手触りの良さそうな髪の長い女だった。細くて出るところが出ていていかにも女らしい体が紅雀の腕に絡み付いて、一緒に歩いていった。ただ歩いているだけだと思うほどおめでたくも子供でもない。紅雀はあの女と寝てきたのだろう。それに前日、夕食に誘った時、彼はこう言ったのだ。野暮用があるのだと。
 深く考えずにふーん、と答えた自分の間抜けさが腹立たしかった。だいたいどうして腹が立つのか、それすらわからない。もういい大人だ。誰かと寝るくらい当たり前だ。紅雀のような男ならなおさら。相手なんてよりどりみどりだろう。好きな女を選べばいいし、選んだ女とどうなろうが紅雀の勝手だ。気兼ねする理由などこれっぽっちもないのだ。約束を破ったのならともかく、そもそも断っているのだから、女を優先したところで責められるいわれもない。なのにどうして──こんなにイライラするのだろう。本当にわからない。
 何より嫌なのは、選ばれなかったのだと感じることだった。意味がわからない。選ばれるってなんだ。
 紅雀に選ばれて、それで自分はどうしたいのだろう。友達としてそばにいることしかできないのに。その他に何があるというのだろう。訴えて何が変わるというのか。本当に気持ち悪い。自分の思考が、気持ち悪い。
 また頭に痛みが走った。顔をしかめ、ふらふらと玄関に戻る。カバンから蓮を取り出して起動した。つぶらな黒い目がまっすぐに見つめてくるのにほっとして、頬擦りするように抱きかかえた。ふわふわの毛が頬をくすぐる。
『蒼葉。思考が乱れている。今日はもう休んだ方がいい』
「……うん」
『何かあったか』
「なにも」
 蓮とカバンを抱え、戸締まりをしてから階段を上る。部屋に入ると上着も脱がずにベッドへ倒れ込んだ。ごろりと転がってヘッドホンをつけ、音楽をセットした。耳から体に染み渡ってくる音を聴きながらポケットから頭痛薬を取り出し、ざらざらと口に入れた。
『蒼葉』
「平気」
 体を丸めると、蓮が身を寄せてくる。ありがとなと呟いて目を閉じた。枕に髪がこすれるのにあいまって、こめかみがずきずきと痛んだ。
 紅雀が島へ戻って来たこと自体は、うれしかった。また会えたことも。変わったところもあったけれど、紅雀はやっぱり紅雀だった。元気でいてくれてよかったと思う。でも今、自分は幼馴染みとの距離をはかりかねている。離れていた時間が長すぎて、どう接したらいいのかわからないでいる。
 子供の頃、自分が紅雀にべったりだったことは覚えている。誰より頼りにして、誰より慕っていたことも。けれど、今の自分は違う。背が伸びて女の子に間違われることはなくなったし、誰とでも普通に話せるようになったし、友達だっている。紅雀にこだわる必要なんてないのだ。ましてや彼がこうしている間にも誰かと会って何をして誰のことを考えていようと、どうでもいいはずだった。なのに。
 こんな醜い気持ちは絶対に晒せないし、認めたくなかった。──自分を見てくれないことが寂しい、なんてことは。紅雀には絶対に知られたくない。
 近づいて来ないでほしい。優しくしないでほしい。中途半端に、昔と同じに。大事だというなら、そっとしておいてほしい。飲みになんて行きたくない。話せることなんて何もない。理不尽な目にあっておいて、どうしてあんなことが言えるのだろう。それともお前のせいだと言ってほしいのか。いっそ言ってやろうか。あの時自分を置いていったくせに、なんで今頃戻って来たんだ。何もなかったみたいに笑えるんだと。
 いつもなら音に身を任せていれば意識が溶けていくのに、なかなか落ち着けなかった。
 それでも目を閉じているうち、睡魔が訪れる。手を引かれて眠りに落ちる前に、また声を聞いた。
 ──蒼葉さんが望むなら、……
 嘘つき。消してくれると言ったくせに、全然消えてなんかいないじゃないか。
 二度と会えないなら、忘れてしまいたかった。こんな気持ちは、全部。いらないんだ。いらないのに。どうして今さら。
 抱えていたら、また壊れてしまう。壊してしまう。せっかく今まで隠してきたのに。
 いつかきっと──暴かれる。