今夜、宇宙の片隅で

 この窓の向こうに見えるもの。早春の桜、夏には花火。じゃあ秋はこれかな、と闇に浮かぶ月を眺めやってそんなことを考えた。
 床につくつもりで照明を落とすと外が驚くほど明るくて、そのまま眠るのはもったいないと少しだけ夜更かしすることにした。格子で区切られた窓の一角にぽっかりと、夜の色をくり抜く輝きがある。そこからこぼれた小さな小さな光の粒がさらさらと降ってくる。おぼろげながらも静かに街を、人の姿を浮かび上がらせる夜の明かり。
 さかさまになった視界に映る窓の中の月はまるで一枚の絵のようで、ふいに写真を撮りたい気分になった。コイルへ手を伸ばそうかと考え、やめた。目の前の光景を今の心情ごと切り取ることはできそうにないし、何より目を離したくなかったからだ。寝そべったままただ黙って月光を浴びているだけなのに、いつになく気持ちが安らぐ。ふんわりと丸くなっていく。夜が長くなりつつある季節でよかった、知らず唇が弧を描くのを自覚しながらそう思った。
 もっとも今夜の月はまだ片側の膨らみが未熟なまま、満月に至るまで1日と半分ほどを要するらしかった。暦を確認した紅雀があぁ、栗名月かと呟くのに対して、あ、ちょっと似てるかもと反応すると、形ではなく栗の穫れる時期にちなんでそう呼ばれるのだと笑い含みで教えられた。──十三夜って言った方がよかったな。今夜はちょうど、十五夜の一ヶ月後に巡って来る月が見られる晩。
 腹の上で丸くなっている蓮とベニをまとめて撫でながら言葉に詰まった瞬間のことを思い返しひっそり恥じ入っていると、視線を感じた。しばらくは気にせず月を眺めていたものの、何を言われるでもされるでもなく、ただ見られているという状況がしばらく続くとさすがに落ち着かなくなってくる。どれほどの時間が過ぎたのか、まばたきひとつにさえ緊張を覚えるようになった頃、とうとう耐えられなくなった。
「俺の顔になんかついてる?」
「うん? ……あぁ、そうだな……、あんまり見とれてるから、俺も見とれてた」
 隣に佇む気配へ顔を向けて訊ねると、返ってきたのはどこか惚けた声だった。輪郭や目鼻の位置、髪が揺れるさまと唇の動き。ところどころは認識できるものの、陰影が強いせいで細かい表情までは伺い知れない。意図的に発されたのではないとわかるゆったりとした口調と内容に虚をつかれ、開きかけた唇から息だけが漏れた。紅雀の目には間抜け面が映ってしまっているだろうか。
「……、あのさ。自分がなに言ってるかわかってる?」
「そりゃあもちろん。きれいだなって。お前が」
 ぐっと息を吸い込むと同時に閉じた唇が歪んだ。可愛いという言葉なら、慣れることはないにせよ何度となく言われてきている。ただ今しがた口にされた言葉は自分にはなじまない気がして、かといってないない気持ち悪いと声にして否定するにはあまりに穏やかに、ごく自然にこぼされたものだから、ひたすら居心地の悪さを覚えた。
「酔っ払い」
「これっぽっちで酔わねぇよ」
 誰かさんじゃあるまいし。そう言いたげにくすりと笑った紅雀が手にした盃を口元へ運んだ。月を肴に一献と、先ほどから手酌で酒を楽しんでいたのだった。どの銘柄を選んだのやら、今夜の酒は発言のことごとくが甘ったるくなる味でもするのだろうか。
 月光にほんのり照らされた手がくいと傾き、喉仏が上下するのをなんとはなしに眺める。紺地に細い縞の入った浴衣を着崩すことなく身につけているせいで喉元から下の肌は見えなくなっていた。昼間とは逆のたたずまいがかえって男の色気を感じさせる気がして、蒼葉はそっとそこから目をそらした。そうして盃の中身を空にした紅雀が下りてしまった前髪をざっくりと撫でつけつつこちらを見、湿らせたばかりの唇の端を上げた。
「可愛いって言葉はこう、どちらかっていうと影のない感じがするだろ。だからきれいだって言ったわけだ」
 口を開いたかと思えばまたもや意味がわからないことを言う。影がないってなんだ。何がどう関係あるんだ。頭の中を疑問符で占められてしまった蒼葉をよそに、紅雀は新たな酒を注ぎ始めた。
「全然わかんねえって顔だなあ」
 わかるかっつの。わかりやすく説明しろよと言おうとして、蒼葉は開きかけた口をすぐに閉じた。こうこうこういうわけで俺はお前がきれいだと思ったんだと事細かに説明されたらそれはそれで困るからだ。
「そりゃそうか。……こうやって酒に月浮かべてたらさ」
 いや、言わなくていいです。そう釘を刺す前に、紅雀が持ち上げた盃を軽く揺らしてみせた。径が広いかわりに背の低い、つるりとした白い陶器の中に封じ込められた月が酒とともにゆらめく情景が目の前の姿に重なるようだった。掴みどころのないことを言い出すのは、こうやって酒ごと月のかけらを飲み込んでいるからかもしれない。月の光は人をおかしくさせるというし。
「お前の目にもこんなふうに月が浮かんでんのかなって気にかかって……そしたら、恋しいのかってくらいじいっと見入ってるだろ。口もきかずに。全身で月の光浴びてるみたいで、やけにしっとりして見えてな。あんまり気持ちよさそうだったから声かけそびれちまった」
 形のいい唇からいつもより低い声が発される。夜のしじまにゆったりと響くひとりごとのようなそれがじんわりと染み込んできそうで、いたたまれなさに耳を押さえたくなった。かわりに腹の上で蓮の耳をいじりながら、きれいっていうならお前だって、と胸の内で呟く。この濁りのない声とか指先とか髪の毛とか睫毛とか、額から鎖骨までの線とかいろいろ、数えきれないくらいに。たぶん今、このシチュエーションで男ぶりが三割増しだ。
「髪はずっと、きれいだなって思ってたもんだけど。こんな蒼葉もいるのかって気づかされること増えたな。最近」
 この間も、と数日前に切ったばかりの髪をそっとかき混ぜられる。毎回どんな感じにしたいか訊かれてはお任せにしていて、紅雀が言うには単に長さの調整だけでなく髪の量やシルエット、段差のつけ方やらを少しずつ変えているらしいのだけれど、自分ではあまり違いを認識できていなかった。
 それを今回はハサミの使い方を教わりがてら、こう仕上げるにはこういう切り方をするんだとざっくりとした解説をまじえつつ切ってもらった。おかげで形を整える程度の作業にやたら時間がかかってしまったものの、紅雀はうれしそうだった。これまでの己の反応が薄情なものに思えてくるほどに。
「あれはだって、お前の髪切るときに失敗したくないし……」
 特に前髪なんてしくじろうものならどうなることか。ざんばら髪にされては困ると言いつつ多少見た目が悪くなったところで紅雀自身はさほど気に留めないかもしれないけれど、他人に紅雀さんの髪ちょっと変、かっこ悪いなどと絶対に思われたくない。切りたいと宣言したからにはせめて見苦しくない仕上がりを目指したかった。
「大丈夫だって。俺が触れるようになるまでは自分で髪切ってたんだし、ズブの素人ってわけじゃないんだ。練習してまずは後ろの毛先から。本番でもちゃんと教えながらやるし、あとは慣れ。それから度胸」
「はあーい」
 本職から教えられるノウハウはぼんやりとしたイメージでしか行っていなかったセルフカットのそれとはまるで違っていて、こんなにも奥が深いものだったかと自分の浅はかさが恥ずかしく、道のりの険しさを思い知らされはしたものの、新しいことを覚えるのは楽しかった。趣味がぴったり合うとは言いがたい紅雀と共通点を持てること、紅雀の世界に触れられることの喜びも大きくて、こういうところ好きだな、そう思う瞬間がどんどん増えていく。今の月みたいに心がふんわりと満たされていくのを感じる。
「髪のクセや扱いがわかってりゃ上達も早いだろ。そうだ、またシャンプーしてもらいてぇなぁ」
「え」
 目の前が翳り、真上から顔を覗き込んでこられる。いたずらっぽい笑みを浮かべた紅雀が視界に現れ、髪の中へ差し込まれた指が地肌に触れた。ぎくりとしたとたん、笑みが深くなった気がした。
「洗いっこすんのも楽しいし。……楽しかったよな?」
「……。変な言い方すんなよカバ」
「シャンプーの話だろ?」
「……ッ」
 愉快そうな声とともにこめかみの生え際を擦ってこられ、否応なくあまり思い出したくない出来事を想起させられてしまう。記憶の引き出しを押さえ込もうとするも、耳の後ろにまで伸ばされた紅雀の指がそれを許してくれなかった。
 髪を切り終わったあとのことだ。紅雀の髪に触れる機会を増やすべく、風呂で髪を洗わせてほしいと頼んでみた。言われた通りにやったつもりだったのに、よほどおぼつかない手つきだったのか紅雀は蒼葉が指を動かしている間中むずがゆそうな顔をしていて、ついには中途半端なところでもういい、手本見せてやると洗い返される流れになった。
 いつになく有無を言わさぬ振る舞いに俺が洗ってるとこなのにと少しかちんときてしまい、意地になって泡にまみれた互いの髪へ手を伸ばしあっているうち、何がどうなってか紅雀にしがみついてあられもない声を上げるはめになってしまっていた──そんなことがあった。
 一緒に風呂に入ってキスひとつしなかったためしはないし、風呂へ誘うときも誘われるときも何かしらあるのかなと想像と覚悟と期待をする癖がついてしまっている。とはいえやっぱりいつまでも慣れないし恥ずかしい。最後までしてしまったときなど終わったあとに何してんだかとのぼせた頭をさらに煮立ててしまうし、思い出した今も布団を頭からかぶってミノムシになりたいくらいだった。
 そんなことあったっていうか、そんなことしかないんじゃねーの。自己嫌悪をつのらせつつ、それでも誘われればうれしいし断れないのだから始末が悪い。ああもう。
「そんなこと言って、嫌がってたくせに」
「ん? 嫌?」
「そりゃ紅雀からすれば下手くそだろうし、気に入らなかったのかもしれないけどさ。我慢してくれねーと手際悪いままじゃん」
「あー、いや、あれは別にそういう意味じゃないんだが……。少し荒っぽいのと雑なのはいただけねぇが、ちゃんと気持ちよかったぜ。そこがまずいっていうか……ま、努力はする」
「はあ?」
 じゃあどういう意味で何がまずいんだよ。そう訊ねようとしたとき、紅雀が酒器を手にベッドを下りた。まあいいかとダイニングへ消えていく背中を息をついて見送って、それからもう一度窓へと目をやる。眠る前にもうしばらく月を眺めていたかった。
 間近に迫った桜の枝から伸びた葉が目に入り、黄色くはなるんだっけと考えた。それもまたこの窓から伺える秋の表情だろうか。本土で見たような紅葉こそ望めなくとも、ここから眺める景色からは碧島の季節の移り変わりを確かに感じ取れる。冬には冬の絵が格子の額の中に描かれるはずだ。
 一年を通じて古ぼけた隣家の壁しか見えない自室の窓を思い浮かべ、ここんちできすぎだよなぁと苦笑した。もう冬には雪とか降っちゃうんじゃねーかな。ありえない想像をしながら枕に頭を擦りつけてふと、ベランダに佇む背中を思い出した。手すりにもたれてぼんやりと煙草をくゆらす横顔と、そのときこぼされた言葉も。……何も見えないのがいいと告げたときの表情は、どんなものだったか──
「蒼葉。なんだ、起きちまったのか」
 跳ね起きたところへちょうど紅雀が戻ってきた。意外そうに首をかしげてそう言うなり、髪をかき上げて視線を窓へと転じる。
「ほんと、寝るにはもったいないくらいの月だな」
 ふんわりと照らされた鼻筋に残る傷、もしかしたら頬の稜線に沿って刻まれた刺青までもが優しく微笑んでいるような、今の紅雀の横顔からはそんな穏やかさが見て取れた。写真が、と思った。写真が撮れたら。写真じゃなくたって、なんでもいい、自分が見ているこの顔を、この姿を今の気持ちごとそっくりそのまま、いつでも取り出せるようにどこかに焼き付けておけたなら。そんな思いがどっと沸き起こった。
 でもきっと、どんなに絵になる写真や映像を残せたとしても、今この視界の中にある情景にはきっとかなわない。まばたきする一瞬すら惜しくて、蒼葉は背筋のぴんと伸びた立ち姿を見つめ続けた。やがて視線に気づいた紅雀がこちらを向いてにやりと笑う。
「なーに見とれてんだ」
 おいで、と細められた目が言っている気がして、ひとりでに足が動いた。呼んだから来たんだと思われるのは癪だから、自分から抱きついてやる。ぴったりくっつくとなじんだ体の厚みが伝わってきてほっとした。いつもとは少し違う匂いと肌触りのする、いとしい人のぬくもりも。
「月、見なくていいのか?」
「あとで」
「そうか」
 不思議そうにしつつもどうしたとは一切訊かずに抱きしめ返してくれるのは、紅雀もそういう気分だったからだろうか。わりといつもそうだぞとか言うかもなと考えるとふいに笑えてきてしまった。さっきまでしんみりしてたのが台無し。……まあいいか。
「なんだよ」
「へへへ。好きだなーって。紅雀のこと」
 きれいなものをきれいだと思うことも、誰かを好きだと思う気持ちも、心の奥底から湧き出てくるものだ。以前の紅雀はそんな生きていれば当たり前のことを感じる自分に後ろめたさを覚えたろうか。もしかしたら、今でも。
 この窓は紅雀にとって美しいものが見えるだけではなく、季節が巡るたび己の罪を思い起こし、痛みと虚しさを覚える場所でもあるのかもしれない。けれど今の紅雀なら自分の心が動くことを否定することも瞑い感情に押し潰されることもなく、どちらをも糧にしていけるに違いない。そんな紅雀をそばで見ていたいし、いざというときには力になりたい。
「明日も頑張ろ」
「なんだそれ。……けどまぁ、頑張ろうってのは俺も同じかな」
「キスしていい?」
 腕をほどくと、笑いながらどうぞと身を屈めてこられた。余裕を漂わせる慣れた仕草に唇をとがらせつつ、蒼葉は顔を傾けた弾みで耳からさらりとこぼれた紅雀の黒髪を撫で付ける。手が頬の刺青をかすめたときわずかに目を眇められたものの、戸惑いや拒否感を露わにすることは少なくなっていた。
 いつかそう遠くないうちに、紅雀がこの前髪をばっさり切ってもいいと言ってくれる日が来るだろうか。刺青などものともせず目をハートにする女たちの姿が容易に想像できて、楽しみなような怖いような。今まで以上にかっこいいだろと胸を張りたい気もするし、誰にも教えたくない気もする。でもやっぱり、知ってほしいかな。それまで少しだけ、この顔をひとりじめしていたい。
「蒼葉。あーんまり見とれてると、こっちからしちまうぞ」
「っ、これからするから!」
 色気ねぇなとくすくす笑う恋人の頬を両側から捕まえる。誘うように瞼が落ちて、蒼葉はそっと唇を重ねた。……さっきみたいな顔、見せてくれてうれしかったな。今この瞬間がすごくいとおしい、そう言われてるみたいだった。うれしい。好きだ。そうしてじんわりと伝わってくるやわらかさと熱に名残惜しさを感じつつ離れる。遠ざかっていく唇に気を取られていると、ふいに薄く開かれた。
「……金色って」
 ぽつりとそんな呟きがこぼされる。
「強すぎる色だって思うこともあるけど、こんなふうに包み込んでくれるようなあったかさや優しさも持ち合わせてる、きれいな色だよな」
 なんだいきなりと目を上げれば、視線が合った。どうしてこんな顔できるんだろうと思ってしまうような、目の前の紅雀はそんな情のにじむ表情を浮かべている。月の話なのにどうして見つめられたままなのか、ああ、さっき目に月が浮かんでるだのって言われたっけとぼんやり思考の糸をたぐる。そういう口説き文句なのかもしれない。なかったかな、なんかそういう気のきいた感じのやつ。
「好きだよ。蒼葉」
 でもこういう遠回しな言い方って紅雀らしくないかも、そう思った矢先にわかりやすい言葉とともに口づけられた。気持ちを伝えられるのもキスも素直にうれしくて、首を引き寄せて応える。触れ合わせては互いの唇を軽く挟むキスを繰り返し、深くなる前に離れていかれた。そういえば酒の匂いわかんなかったなと思うと、少し知りたくなってしまった。
「する?」
「こら、そんな目すんな。……今日は遅くなっちまうから」
 よほど物欲しげな顔をしてしまっていたのか、また今度なと目尻にも唇を落とされる。そうして肩を抱かれ、ベッドへ連れて行かれた。寝る前にトイレ行っとこうかな、どうしよう。膝をついて奥へ移動しながらおよそ色気に欠けることを考えたとき、意識の片隅に何かが引っかかった。トイレ。手洗い。洗面台。……洗面台。
「つかさ。シャンプーするだけなら風呂じゃなくて洗面台使えばよくね?」
「ん?」
 思わず振り返ると、紅雀が目を丸くするのがわかる。
「混合栓売ってるよな。シャワーついてるやつ。あれつけるとかさ。好きに部屋いじっていいって言われてるんじゃなかったっけ?」
 間が空いて、さりげなく目をそらされた。バレたか。その声が聞こえたとたん、シャンプーだのトリートメントだのといった口実で風呂に引っ張り込まれてのあれこれが堰を切ったように思い出された。あ、だめだこれ頭パンクする。穴掘って叫びたい。ぶるっと体を震わせた蒼葉は、耐えきれずに声をほとばしらせていた。
「っ、バレたかじゃねーよ! あっ、あのな、俺が今までどんだけ」
「ぅわ! 蒼葉、待てって、おい」
 詰まった言葉の分まで力を込めて、掴んだ枕をすくい上げるようにして思いきりぶつけてやる。乾いた音を立てて枕が落ちるのを見届けもうひとつを引き寄せたところで、紅雀が両の手のひらをこちらへ向けた。
「冗談だって。俺が悪かった。な、落ち着けよ」
「笑うなアホ!」
 枕を掴み上げると同時に紅雀の両手が耳の位置まで上がる。
「いや、考えたことはあるんだけどさ。屈んで頭下げたまま洗うことになるから、洗われてる方の姿勢が苦しいだろ。店のシャンプー台っぽくしようにもスペース的に厳しいもんがあるし、どのみち小回りきかなくて洗いづらい。で、風呂の方が合理的っつーか、そういう結論に至ったわけだ」
 ゆっくりと噛み砕くように諭されるうち、眉間にかかる力がゆるんだ。煮えたぎった思考回路も次第に落ち着いてくる。確かに自分たちの体格を考慮するに、あの洗面台だと手狭だった。
「……、まあ、そう言われてみれば……。合理的?」
「濡れても汚れても平気なところで洗った方がいろんな意味で気持ちよくなれるだろってこと」
「あのなー……」
 いけしゃあしゃあとよくも。呆れるあまりため息が漏れた。完全に毒気を抜かれてしまった思いで、蒼葉は縦にした枕を抱えるようにして腹に当てた。
「この際シャンプー台入れてもいいけどな。風呂は風呂で誘えばいいし。蒼葉はどうしたい?」
 意味ありげに見つめてこられて、答えに詰まった。目的をもって風呂に誘われるときというのはたまの緩衝材みたいなもので、建前がなくなってしまえばそれはそれで困る気がしたからだ。特になんの理由もなく紅雀から誘われるパターンの緊張感は自分から誘うそれの比ではないし、単に気分だけの問題でもない。嫌じゃないけど嫌で、困らないけど困る。思考が綱引きしながらこんがらがっていく。
「今のままでいいです……」
「考えんのめんどくさくなったんだろ」
「ち、ちげーし。別にシャンプー台とか、大がかりなことしなくたっていいかなって。……そういうのは、店できてからで」
「そっか。じゃあ、そうするか」
 小さく息をつき、紅雀が枕を元の位置に戻した。気になったのだろう、もつれあった房飾りの紐がほぐされるのを見るうち、じわじわと羞恥がこみ上げてくる。
「ええと……、ごめんな。さっき」
「なにが?」
「いきなり怒ったのと、枕ぶつけた……」
 決まりの悪さについ声が小さくなった。房飾りを整え終えた手がふわりと浮いたかと思えば、やや乱暴に髪を撫でてこられる。
「気にすんなよ。お前がどういう反応するか気になるからってしらばっくれた俺が悪ィんだ。まぁ驚きはしたけど、言いたいこと我慢される方が嫌だし。恥ずかしい思いさせてる自覚はあるし、そこは俺の責任でもあるし」
 もうしないとは言わないんだなと思ったものの、文句をつける気にはなれなかった。できなかったと言うべきか。紅雀の中で何かしら線引きが行われているのか、Tシャツに下着といった格好で髪を洗われることも少なくない。そういうとき、用事をすませて出て行こうとする相手を引き止めるのは蒼葉の方だからだ。
 ぼんやりしている隙にめくれた綿毛布の波に飲まれてころんと転がっていた蓮とベニとがひょいと持ち上げられ、こちらも毛並みを軽く整えられたのち窓辺の定位置におさまった。抱えていた枕をやんわりと引き剥がされ、紅雀の手によっていつも通り仲良く並べられる間、蒼葉は布団をたぐり寄せる。
「……、おやすみ」
 いたたまれなさから背を向けて枕に頭を落ち着けると、紅雀の気配が近づいた。汗だくになるような時期は過ぎてしまったし拒む理由もなく、黙って体の位置をずらした。ほどなく枕が沈み、背後から抱き込まれて密着する格好になった。と、ひそめられた吐息が届く。
「さっき、舌回んなくなってるの可愛かったな。枕もさ。痴話喧嘩っぽくていいよなぁ、ああいうの」
「痴話喧嘩って……」
「付き合ってんだなーってしみじみしたっつか」
「今さら?」
「改めて、だな」
 うなじにかすかな息がかかったのもあって、やたらくすぐったい気持ちになった。
 お互い諍いを好まなかったり鷹揚に構えている面があるせいか、どちらかが臍を曲げたり拗ねたりすることこそあれどこれまで喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。別にそれを物足りなく感じることはなかったけれど、紅雀は違うのだろうか。なんか、付き合ったらこういうことするんだって膨らませてた夢のひとつが叶った中学生みたいだなと思ってしまった。それとも、今まで純粋に枕投げられたことがなかったとか。……ない奴の方が多いか。俺だってないし。たぶん。目を閉じたまま眉を寄せていると、今度はこんなことを言われた。
「栗ごはん食いてぇ……」
「今から寝るってときに食いもんの話すんなよ。腹減ったらどーすんだよ」
 近くにある足に軽く踵をぶつけると、うーんと緊張感のかけらもない声が返った。
「今度婆ちゃんに作ってもらえば」
「そうするか。ハロウィン終わって落ち着いたら、栗と酒持ってお願いしに行くことにするわ。お孫さんをくださいって」
 ついでに作り方教わろうかなと考えていたせいでなんとなく聞き流していた言葉が、どこか引っかかった。
「……、今なんて言った?」
「んー? おやすみぃ」
「ちょっ、紅雀?」
 思わず振り返ったものの、呼びかけもむなしく紅雀は完全に眠りにつく態勢に入ってしまったようで、目を開けてはくれなかった。すぐ後ろで聞こえ始めた規則的な呼吸音と肌をくすぐる寝息に戸惑いつつ、えっと、とまばたきを繰り返す。くりごはん。栗と酒と……何か、ぼそりと呟かれた上にくぐもった声のせいでずいぶん聞き取りづらかったけれど、語呂は似ていても栗ご飯とは少し違うことを言われた気がする。
 胸がざわめく中しばらく悩んで、寝よう、と思った。明日とかそのあととか、もし大事なことなら紅雀がちゃんと言うだろうし。寝よ寝よ。そうして目を閉じて睡魔の訪れを待ちながら、ふと去年の十三夜はどこで何をしてたんだったかなと考えた。今日やけに明るいなとでも蓮と話しながら眠りについただろうか。
 2年前、3年前、それより前。紅雀と離れていた頃のことはもっと思い出せない。でもたぶん、こんなに明るい夜も暗すぎる夜も好きじゃなくて、かたく目と心を閉じてやりすごしていた。その頃の自分に現状を知らせたら鼻で笑われるに違いない。バッカみてえ。そんなことあるわけねーしとかなんとか。だよなー、俺もそう思ってた。……でもやっぱりどこかで信じてたし、信じたかった。そうだよな。そうじゃなきゃ、紅雀のことなんにも知らないままだった。今、毎日楽しいよ。ひとりで自分とのやりとりを思い描いてこっそり笑った。
 紅雀はどうだろう。ひとりで過ごしたろうか、誰かと一緒だったかもしれない。今夜のように月を愛でながらキスをしたり、朝まで過ごしたりしたこともあるのだろう。そこへ現れてそのうち俺と付き合うことになって枕投げられるよなんて教えてみたらどうなるか。なに言ってんだと笑い飛ばして、でも根が真面目だから一応その可能性について考えてみてくれるかもしれない。まさかなって焦ってる顔見てみたいなと肩を震わせると、腰に回された腕の力が少し強くなった。
 ふいに腹に当てられていた手のひらが這いのぼってきて、あわてて手首を掴むとあっさり止まる。ほっと息をついてその手に手を重ねれば、探し物を見つけたかのようにおとなしくなった。もう眠ってしまっているのかどうか、耳をすませてもよくわからなかった。
 傷だらけの、でも風呂上がりに塗り込まれるクリームによってなめらかになった皮膚がしっとりとした感触を伝えてくる。何気ない指の動きと白いクリームが放つ清潔で控えめな匂いが思い出され、目を閉じた蒼葉はそっと息を吸い込んだ。
 大丈夫、どんなに寂しくても傷ついても、いつかこんな、泣きたくなるくらい優しい夜が降る。意識を手放す前に、誰にともなくそんなことを思った。たった一度しかない夜を彩る月はもうじきこの部屋の窓と街から姿を消し、やがて朝を連れてくる。