うそかもしれないほんとのはなし

 気持ちよーく飲んで、気持ちいいことして寝て〜、明日の休み何しようかな。飲み始めたときにはそう思っていた。のに。
「……あれ……、朝だぁ……」
 目が覚めたらベッドの上で、さらには紅雀の腕の中だった。身じろぐと、膝が紅雀の脚に当たった。素肌の感触。脚だけでなく、おそらく全身だ。まだ頭がうまく働かないし、眠い。嗅ぎ慣れた寝床の匂いに安堵してもう一度目を閉じ、うつらうつらし始めたところで、うなじに回されていた手に軽く髪を引っ張られた。
「こら。起きろよ」
「まだねみーの……」
 回りきらない舌でそう言って、甘えるようにすぐ近くにある胸板に額を擦り付ける。体にふわりとかかっている布団から伝わるぬくもりよりも確かな熱源が心地良かった。
「すげー、あったかいし……」
 とろりと溶けて散っていきそうな意識の中、やっとのことで声を絞り出すと、呆れまじりの笑い声が聞こえた。髪を梳かれる感触がする。
「猫みてぇ」
「うん……もう猫でいい……」
「ふうん」
 うなじにあった手がつっと首を撫で、喉へと回る。そのまま撫で上げるようにして触れられた。
「じゃあ飼っちまおうかな。ここに鈴のついた首輪つけて」
「……、ん……」
「あーおば」
 くすぐられ、思わずのけぞらせた喉を再び撫で上げられる。うっすら目を開いて眠いのにと鼻を鳴らすと、額に唇が当てられる気配がした。あたたかさにまた瞼が下りる。三たび喉に指を這わされ、いい加減しつこいと気の抜けた声でにゃー、と言ってやると、もう少し可愛く鳴けよとまた笑われた。そっと肩を押され、横向いていた体を仰向けにされる。
「……昨日、なんかした?」
 口許に手の甲を当ててあくびしながら、記憶が飛ぶほど飲んでしまった日にはありえないことだと承知の上で訊いてみる。ふと影が落ち、覆い被さってきた紅雀の顔が見えた。静かな笑みをたたえた紅い瞳が見下ろしてくる。きれいだな、と思った。
「なんで」
「……服着てねーし」
「お前が脱いだんだよ。自分で」
「嘘だろ」
 嘘じゃねえってと答えた紅雀がシーツに放り出していた手を掴んできた。軽く曲げた指の間に紅雀のそれが割り込んでくる。続いて手のひらが載せられて、すっぽりと覆われる。
「暑いからって、玄関からぽいぽい脱いでったぞ。色気ねえったら」
「なくていいっつの」
「帰る前もなぁ……」
 ぐっと手を握りしめながら苦笑されて、うん? と瞼を可能な限り押し上げる。何かしたのだろうか。すがすがしいくらいに何も覚えていない。そして、紅雀が潰れてしまった翌朝にわざわざ何かを言ってくるときは、それなりのことをやらかしている証拠だということを思い出した。──嫌な予感がする。とっさに耳を塞ぎたくなったけれど、ぼやぼやしている間にもう片方の手も拘束されてしまった。
「ゆうべ、お前へばりそうだったから公園で休憩したんだよ。たまたま繁みん中でそりゃまあ盛り上がってるカップルがいたんだが……、それ見て、俺もあれしたいって」
 くっと噴き出されて、羞恥で一気に目が覚めた。毛穴という毛穴から発火してるんじゃないかと思うくらいに全身がみるみる熱くなるのがわかった。いっそのこと、ひといきに燃えて灰になってしまいたかった。
「〜〜〜〜ナニソレ言ってねーしっ!!」
 反射的にわめくと、まだ笑っている紅雀に楽しげな表情でこう言われる。
「なら、蓮かベニにでも訊くか?」
「……いたの?」
「いたなぁ」
「うそ…………っ」
 絶望のあまり声がかすれる。じわりとにじんだ涙で視界がぶれた。灰になれないなら穴掘って埋まりたい。いや、穴掘ってこいつ埋めて俺も埋まりたい。そう思った。もう蓮を起動できないかもしれないと涙目でぶるぶる震えていると、また紅雀が噴き出した。
「なーんてな」
「……は?」
「嘘だって」
「はぁあああ!? このカバッ!! もぉ、なんだと思って……!!」
「いやぁ……、そこまで真に受けると、ふっ、思わなくて、よ……、っくく……」
 よほどおかしかったのだろう、蒼葉の胸に髪が触れるほどに体を折り腹がよじれそうな勢いで笑っている。小刻みに震えている紅雀を見るうち、羞恥を通り越して怒りが湧いてきた。
「笑いすぎ!!」
「って」
 足を動かせないかわりに、自由になった手で紅雀の肩を押し返してやる。ついでに猫みたいに爪も立てて。
「あーおーば。悪かったって。起きんの待ってたら日が暮れちまいそうだったから、ついな」
 体の下から逃れるべく肘を使ってシーツを這おうとしたところで、目の前に手をついて阻まれた。紅雀を横目に見やって、蒼葉はすぐに目をそらした。
「……ほんとに、嘘?」
「ん?」
 顔を覗き込んできた紅雀が首をかしげる。ほどかれた黒髪がさらりと揺れた。
「だって……」
 ゆうべは自分だってそのつもりだったのだ。食事より飲むことより、その先を期待していた。だから、そんな醜態を晒していてもおかしくはなかった。つのる罪悪感に耐えきれず顔をそむける。
「その……、ごめん……。潰れるつもり、なかったんだけど」
 ぎゅっと身を縮める。浮かれすぎてしまっていたのかもしれなかった。ただでさえ近頃紅雀に会う日は、地面に足ついてんのかなと思うことがある。ふわふわして落ち着かなくて、ああだめだと杯を重ねて。それがこのていたらくだ。紅雀はがっかりしなかっただろうか。しおしおと萎れかけていたところへ、こめかみにそっと唇が落とされた。
「紅雀」
「気にすんなって。お前がうまそうに飲んでんの見んの楽しかったし。ころころ笑ってて可愛かったぜ。初めてのことでもねぇし」
「……別に、やってもよかったのに。したいっつったんなら」
 ちらりと見上げると、こら、とたしなめるような声とともに耳朶を引っ張られた。
「だからそういう物言いはやめろって。ほんとに言ってたとしても酔っぱらいとはしねえよ、そんなこと。俺だけ覚えてるとかめちゃくちゃ虚しいだろうが」
 考えてみろと言われて、納得した。確かに。
「うん……悪い……」
「ま、今度その気になったら素面のときに誘ってくれよ。あー、でも、出歯亀にお前のやらしいとこ見られんのは我慢ならねぇなぁ……」
「……ばかじゃね」
 弾みで言ってしまったこととはいえ、どんな会話だとだんだん恥ずかしくなってきた。やめよう。火照った顔から熱を逃がそうとシーツに頬を押し付けて息をついていると、背後に身を落ち着けた紅雀に抱きしめられる。
「正直、ちっと空振りっつかそういう気分にはなったけどな。こっちが我慢してんのにお前も脱げってうるさいし、キスしろってさんざんわめくし。埋め合わせしてもらわねえと割に合わないわ」
「……はい?」
「それも覚えてないか」
 答えられずにいると、ため息とともに肩に顎をくっつけられる。
「したわけ?」
「しないと寝ないってだだこねるから、仕方なく」
「……お前の話、どれがほんとで、どれが嘘だよ……」
「信じるもよし、信じないもよしだな」
 くすくす笑われて、紅雀の手のひらの上で転がされているようで癪に障る。やっぱ穴掘ってこいつ埋めようかなと思った。キスのことが事実だとして、仕方ないという言い分の信憑性はきわめて低い気がする。……それにしても。
 一日の、それも朝だけのうちにこれだけ紅雀が笑っているのも珍しいかもしれない。とんだ恥をかいたものの、ならいいかとふとあきらめがつく。お預けを食らわせたのは事実だ。埋め合わせにはとうてい足りないにしても、紅雀の気がすむならやむなし。
 ふと思い立ち、そっと唇を撫でてみる。ゆうべの自分は紅雀とどんなキスをしたのだろう。触れるだけか、もっと深いものか。一度だけなのか。気にはなったけれど、さすがにそこまで訊ねるのは抵抗がある。自らからかいの種を蒔くこともない。本当にあったことなら覚えていてくれればいいのにと下唇をつまんでいると、曲げている肘を指でとんとんと叩かれた。
「これからどうする。天気いいしどっか出かけるか」
「今って、何時?」
「10時回ったくらいかな。何するにもまだ余裕あるぞ」
「……埋め合わせ、すればいいじゃん」
「へ?」
「だから。これから、昨日の」
「……、蒼葉」
「……可愛く鳴けるかは……わかんねーけど」
 ぼそりとひとりごち、振り返る。驚いたような顔をしていた紅雀が、やがて照れくさそうに目を細めた。
 そうして与えられたのは、朝から受け取るにしては濃密なキスだった。