いまいましいふたり

 彼らには楽しみがある。

「今日、どうする?」
「ぱなま亭のナポリタンかな」
「いいね」

 毎日のランチで賭けをすること。勝ち負けを決める条件はいつもひとつ、彼らが心酔している人物に会えるかどうか。それだけ。
 彼らは毎日街の中を闊歩しているが、彼はそうではない。遭遇できる確率はどちらかというと低い。
 会えたらラッキー。会えなければ、それぞれが金を出すだけだ。毎日の、ちいさな楽しみ。

「……いた」
「ちぇ。まあでも、ラッキーだね」

 口角をそっと引き上げると、彼らは揃って口を開く。示し合わなくとも起こるユニゾン。

「蒼葉さん」
「あーおば」

 振り返った彼が自分たちを認め、ほころぶような目をする瞬間を、彼らはとても気に入っていた。





 数年後。
 彼らに、新しい楽しみができていた。

「今日、お前の番」
「木嶋やの梅しそ巻きフライ盛り合わせ膳、アリの方で」
「そうね。ちょっと暑いし」

 ランチを賭けるのは相変わらず。勝ち負けを決めるのは、彼に会えるかどうか。……それから。

「蒼葉さん。こんにちは」
「あー、お前らか」
「今日も可愛いねー。蒼葉」
「やーめーろ。触んな」

 彼は最近、これまで長く伸ばしていた青い髪をばっさりと切った。
 その姿を見て、ずっと長い状態しか知らなかった彼らは驚くと同時に感激した。新しい髪型も彼にとてもよく似合っていた。まるで生まれ変わったようだった。髪とともに彼は色んなものを断ち切ったのだと、ふと脳裏をよぎった儚いひとの影に切なさを覚えた。
 あまりにあどけなかったので子供に戻ったみたいだと二人でからかったら不機嫌になった。そんな顔も可愛かった。

「本当に。蒼葉さんらしくなく、きれいにセットされてますよね」

 本来、彼は自分の髪には無頓着だ。以前は自分で触ることすら苦痛だったようだから当然櫛を通す習慣などないし、よほどひどくなければ寝癖をそのままにしていることもあった。それが今日は実に美しく整えられてつやつや光っている。
 彼の手によるものではないのは明白。髪に触れた者の美意識は認めるが、かすかに漂ってくる主張が気に食わない。……俺のものだ、とでも言いたげな。

「ん? どういう意味?」
「褒めてんの。──お前の勝ちだね」
「?」
「俺たち、最近賭けをしてるんです」
「賭け?」

 唇に指をあてながらにっこり答えると、彼は怪訝そうな顔をした。そうするとますます幼く見えた。

「そ。蒼葉に会えたらランチ奢りってね。で、今日はこいつの勝ち」
「なんだそれ。俺の許可もなく? てか、俺で賭けになんの?」
「十分ですよ。前に言ったじゃないですか、蒼葉さんに会えた日はラッキーなんだって」
「そうそう。なんなら俺、蒼葉にも奢っちゃうよ。一緒にどう?」
「んー、残念。もう食ったからいいや、また今度な」
「なーんだ」
「今度は是非」

 軽く手をあげて彼が去っていく。ふいに吹き始めた風に、短くなった髪が揺れた。
 きらきらと陽の光を反射しているそれは、きっとやわらかな手触りがするのだろう。

「……勝ったのに、むかつくな」
「俺なんか負けだし、めちゃくちゃむかつくし、蒼葉はいねーし、いいことない」

 フライをつつきながら二人でぼやいた。
 楽しみではあるけれど、今や彼らの賭けはやや自虐的なものになりつつあった。



 数日後。

「今日はどこにする?」
「キッチンマカロニのトマトソースハンバーグ、チーズ入り」
「ああ、いいな。久しぶりだ」
「なしで」
「了解。──おや」

 今日はラッキーな日のようだった。それも、ラッキーにラッキーが重なる日。

「やったね」
「…………」

 不満げな傍らの彼をよそに指を鳴らし、あーおば、と声をかけると、彼が振り向く。数日前とは違ってもっさりとした頭をしていた。思わずにやりとしてしまう。
 足早に近づくと、彼が微笑んだ。

「よ。まだ仕事しないでフラフラしてんの?」

 彼らは目下失業中だった。大好きな人を見守り、おいしいものを食べるついでにうるさいガキ共をシメて回るだけの簡単なお仕事はラクで楽しかったけれど、失ってしまったものは仕方がない。
 もう街を歩き回る義務はないのに、すっかり習慣になってしまっているからつい出かけてしまう。それに、外に出なければ彼に会えない。

「もうしばらくのんびりしようかと思ってまして」
「なー蒼葉、ヤクザってハローワーク行ってもいいの?」
「いんじゃね? 辞めてんだし」
「履歴書になんて書けばいいんでしょうねぇ」
「うーん……自由業?」
「それ、今とそんな変わんないね」

 自分のことだろ、相変わらず他人事みたいにと彼は呆れる。 

「今日はどっちの勝ち? 何食うの?」
「ハンバーグ。で、ウイルスの奢りー」

 賭けに勝ったうれしさに彼の肩を抱く。ぐいと引き寄せると、ふわりと何かが香った。少し考えて首筋に鼻先を寄せ、もう一度匂いをかいでみる。

「…………」
「へえ。ウイルス、マジで俺にも奢ってくれんの?」
「もちろん、喜んで」
「へへ。ラッキー」
「──蒼葉、朝風呂?」
「は?」
「石鹸のいーい匂い。でも、髪洗う暇なかったんだ?」

 指摘すると、目の前に立つ彼の目が眼鏡の奥で一瞬鋭くなる。ふふと笑って彼を見た。

「そうなんですか。夜更かしでもしました? それとも寝坊を?」
「…………えっと」

 うん、まぁ、と目を泳がせた彼の頬が赤い。手のひらから伝わる体温がみるみる上がっていくのがわかる。彼らは笑みがひきつらないよう努めた。

「熱でもあんの? 顔真っ赤」
「え、いや」

 そこへ、彼のコイルが着信を告げる。あわてて手元を見て、肩に回した腕を掴んできた。

「わり。ちょっと呼び出し……俺行くな」
「えー? 寂しいの」
「次こそはご一緒しましょう」
「おう、じゃな」

 まだぎこちない表情のまま、彼が走り去る。細い体が雑踏に消えてしまうと、彼らは笑みをすっと消した。
 へー、ほー、ふーん。そうですか。
 二人同時に同じ男を思い浮かべて、心の中で唾を吐いた。



「……すっげーフェイント」
「だな」

 真っ赤なトマトソースの中で溺れそうになっているハンバーグに思いきりフォークを突き刺す。ざくざく切り裂いてチーズのからんだ肉片をひとかけ口に放り込んだ。イライラしていても美味いものは美味い。それは幸いかもしれない。

「何あれ、どういうこと? 遅くまでやってたの? それとも朝からか?」
「知るか。どっちにしろやったんだろ」
「あーむかつく」

 新しく加わった賭けの条件──彼が前日、恋人と夜を過ごしたのかどうか。

 最初は見て見ぬふりをしていたのだが、髪だの匂いだの顔つきだのがあまりにもあからさますぎて見過ごせなくなってしまった。
 勝っても負けても虚しい賭けだ。それでもやめられないのが悲しい。賭けも、彼に会うことも、見つめることも。

「どこがそんなにいいんだか」
「だいたい、なんでああなるわけ。ありえない。蒼葉が忘れたいって言うからきっれ〜いに消してやったのに、納得いかねえ。俺たち手抜きなんかしてないよな?」
「……そうだな。記憶操作は完璧だったはずだ」

 ────忘れたいことって、ないか? 嫌なこととか、誰かのこととか、いろんなもの。

 ────誰か、俺を…………、壊してほしい。

 そう言うから、もののついでで彼の中に巣食っている不快な存在にまつわる記憶を壊してやったのだ。当時はそれが誰なのかは知らなかったが。

 それは、彼の心の奥に宝物のようにしまわれていた。きらきらと光るそれを、彼らは容赦なく壊した。頼まれなくてもきっとそのうち壊していただろう。きれいで眩しくて、とても目障りだったので。
 彼らにとってきらきら光るものは、彼だけでよかった。

 なのに、どこかに残っていたらしい種が彼の中で芽吹いてしまった。それともまったく新しい気持ちが生まれたのか。とにかく、彼はあれほど忘れたいと願っていたはずの相手と恋に落ちてしまったのだ。ひょっこり現れて彼の日常に入り込み、すぐに溶け込んでいたあの男と。彼の手をとるのは、彼と恋をするのは、自分たちのはずだったのに。そのために今までを生きてきたのに。

「なに? 愛の力とか奇跡とか言っちゃうの? 胸糞悪ぃ、超寒い。絶対認めねーし」
「タワーでずっと待ってたのに、うさんくさいドクロ野郎に持ってかれたし」

 彼のプラチナ・ジェイルでの足取りは逐一追っていた。彼が押し倒されたりお持ち帰りされたりするのをやきもき傍観しながらも自分たちのもとへ辿り着くのを心待ちにしていたのに、出番は与えられなかった。何もできないままオーバルタワーは崩壊し、彼らは無職になってしまった。どうしてこうなった。もう何度目になるかわからない行き場のない怒りがふつふつと湧いてくる。

「あれただの痴話喧嘩だろ。なんなんだよ。何しに来たんだよあいつら。俺らとタワーに謝れ」
「まったくだ。早く別れりゃいいのに」

 あの男を陥れる手段などいくらでもあるが、髪を普通に触れるようになったのだと、頭が軽くて驚いたとうれしそうに笑う彼を見ていると、悲しませるような真似をするのはためらわれた。彼がなんの変哲もない穏やかな日常を望んだように、彼らも日常の中の彼を愛していたから。
 彼につられて微笑んでしまうような、優しい日々も。

「……まぁでも、この先どうなるかわかんないよね」
「きっちり見届けさせてもらわないと」

 真っ赤に染まった肉片を飲み込み、にやりと笑い合う。
 そう、別に完全にあの男に渡してしまったわけじゃない。諦めたわけでもない。
 今はまだチャンスを伺う時だ。その時が来たなら、きっと奪ってみせる。彼がどんなに抵抗しようと、必ず。あんな男には負けない。そして──彼ともう一度、恋をするのだ。

「楽しみだ」
「ほんとに」

「──気晴らしに、そろそろ仕事でも始める?」
「珍しいこと言うじゃないか。何か思いついたのか?」
「ふふ。あのさ、」

 いたずらを思いつくのはたいてい彼。
 策を練るのはもうひとりの彼。
 まったく異なる存在でありながら互いを補い合い、対をなすふたり。

 彼の提案を聞いている彼は澄んだ水色の視線を眼鏡越しにゆっくりとめぐらせ、やがて楽しげな笑みを浮かべた。

「いいね」
「だろ」
「細かいことはこれから考えるとして、とりあえず食べようか」
「うん」

 まだハンバーグは温かい。彼らは優雅な手つきでゆっくりと食事を楽しんだ。

「やっぱうまいわ。蒼葉にも食べさせたい、これ」
「今度は一緒に来れるといいな」
「無理矢理連れて来ちゃえばいいよ」

 そうだ。何を遠慮することがあるだろうか。
 もし会えたなら、明日にでも。

「まだ続ける? 賭け」
「何もしない方が腹が立つ」
「まあね」

 さて、明日はどうなるだろう。会えるだろうか。笑ってくれるだろうか。
 
 ──それもまた彼らの毎日の、ちいさな楽しみ。