なつかしい未来

「トラウマっていったら、子供の頃大きな犬に追いかけられたことかなぁ。しかも田んぼに落ちたし、結局噛まれるし、そのせいで大きい犬苦手」
 ──暑いし、ちょっと重くなってきたんで、長さは変えずに軽くして下さい。
 学校帰りらしい制服姿の彼女とは、数ヶ月前に初めて会った。つやつやした扱いやすい黒髪の持ち主で、何より紅雀に対してぎらぎらしていないのが新鮮だ。ぎらぎらされようが一向に構いはしないのだが、駆け引きを楽しめなくなってしまった今となってはこういう客の相手をする方が気楽だった。
「そりゃあ気の毒だったな。せっかくきれいな肌なのに、傷痕残らなかったか?」
 内側の髪をハサミで軽く間引いてやりながら言うと、明るい笑い声が夏の空気を揺らした。その快活さに耳に届いていた蝉の声が一瞬遠ざかる。
「大丈夫。もう紅雀さん優しいなぁ。紅雀さんはそういうのあります?」
「ん? なんだろうなぁ」
 ふと頭に浮かんだ光景があったが、口にはしないでおく。何ヶ月か前の、思い出しては頭を抱えたくなったり突っ伏したりしたくなる出来事だ。我ながらこの生殺し状態によく耐えているものだと思う。
「まさかね、ないですよねー。大人だし」
 ありすぎるほどにあるし、いくつになっても人って馬鹿なんだぜ──とは口が裂けても言えない。穏やかな笑みを貼り付けたまま、紅雀は手を動かした。
「ないってことはねえよ。犬に追いかけられたことだってあるし。俺はどっちかっていうと、猫の方が苦手だったけど」
「えー? かわいいでしょ?」
「見た目はなぁ」
「思うように近寄ってきてくれないところがいいと思うなー」
「…………」
 可愛いといえばそりゃもう可愛い──と猫でないものを思い浮かべながら長い黒髪を持ち上げたところに、かたわらで声が上がった。
「あ。あおばくーん」
 手を止めてちらりとそちらを見ると、小さな荷物を手にした蒼葉が少女の連れらしき女子高生に呼び止められていた。つい今しがた思い浮かべたばかりの猫でないものは、紅雀の視線に気づくとほんの一瞬、二人でいる時に見せる顔になる。つい見とれそうになって、さりげなく目をそらした。
「よ、元気?」
「久しぶり〜! 暑いね」
「今って夏休みじゃねーの?」
 同年代や年上の女よりも話しやすいのか、気負いのない声がぬるい風に乗って耳に入ってくる。声をかけられれば相手こそするものの、お前目当ての客苦手だわ、とことあるごとにぼやかれていた。あの女ーって感じのするとこがだめ、と疲れたように言うのだった。それでもよほど立て込んでいる時でもなければきちんと足を止める。時間があれば紅雀の仕事ぶりを少し離れたところからじっと見ていることもあった。
「部活あったから。ねえねえ、おととい瀬戸物屋さんにいなかった?」
「……、あー、うん……。なんだ、声かけてくれたらよかったのに」
 こちらを伺う気配がする。ハサミを腰のポーチにしまい、次にその手で持った櫛で髪を整えながら切った分も払ってやる。それも終えると、紅雀は少女に手鏡を渡した。
「どう?」
 後ろも見えるよう背後から鏡を持つ。癖のない黒髪をさらりと揺らし、きょろきょろとあちこち視線を動かしたあと、少女が満足げにうなずいた。
「うん、いい感じ! ありがとー」
「なら良かった。よく似合ってるぜ」
 振り向いてはじけるように笑う彼女に紅雀もつられる。髪結いをしていて一番幸せな瞬間だった。鏡を受け取っていると、再び会話が聞こえてくる。
「実はさ、婆ちゃんが気に入ってる皿割っちゃって。同じものないかなーって」
「え、そうなの? バレたら怒られるじゃん!」
「そうなんだよな〜。雷落ちっかも。どうすっかな〜」
 あーあ、何やってんだかと思いながらカットクロスを外し、軽く振って折りたたむ。ただ、さほど困っているように聞こえないのは気のせいだろうか。
「見つかるといいねぇ」
「ありがと。あ、これ内緒な」
「ふふ」
 地面に散らばった髪を手早く片付けている最中、あのー、と声がかかった。少女を見やると、彼らを横目にこそっと話しかけてくる。
「蒼葉くんって、やっぱり彼女とかいます?」
「さぁどうだろ。いてもおかしかねえけど、あいつ俺には口割らねーからなぁ」
「えー、仲良さそうなのに」
 そりゃあもう。少しだけ罪悪感を覚えつつ、紅雀はそらぞらしく知らぬふりを続ける。
「相手が俺になびいちまったりしたら困るとでも思ってんだろ」
「あ、それは心配かも。──あのね、あの子友達なんだけど、蒼葉くんが気になるみたい」
「へぇ」
 再び蒼葉に目を向ける。ちょうど手を振って離れていくところだった。ここ2日ばかりメールのやりとりしかしていなかったから話せなかったのは少し残念だったが、直接顔を見て声を聞けただけでもいいかと思い直す。それに、今日は会う約束をしていた。
「それとなく探ってみてもらえません?」
「いいけど、多分なんも出てこないと思うぜ。直接聞いた方がいいんじゃねえかなあ」



 ……というようなことがあったと話してやると、紅雀の視線より低い位置にある頭がゆっくりと傾いた。毛先からぽつんと落ちた雫がゆらゆら揺れる水面にほんの小さな波紋を描く。
「こら。動くな」
 紅雀の言葉を無視して、蒼葉はふうっと息をついてうなだれる。指に絡んでいた髪がすべって離れていく。
「彼氏ならいますって言えって?」
「そこは好きにしろよ」
「……ひとごとだと思って」
 そう呟いたきり膝をかかえてしまう。しっとり濡れた背中を眺めながら、紅雀は首をかしげた。昼間は変わった様子はなかったのに、帰ってきた時から少し元気がない気がした。落ち込んでいるわけではなさそうなのだが、どこか上の空だ。今の状況であればいつもなら照れてみたり悪態をついてみたりするところなのに、いやに静かで物足りない。
「どうしたよ。皿のことでタエさんにどやされでもしたか?」
「皿?」
「割ったんだろ。──そのままじっとしてろよ」
 気を取り直してトリートメントのチューブを手にとり、中身を手のひらにのばしてから髪に触れる。
 週に一度でいいから使えとひとつ渡してあるのだが、髪の手入れの習慣が身についていない蒼葉にとっては億劫な作業のようで、ろくに使ってねえなと手触りでわかる時は仕方なく紅雀がつけてやっていた。その頻度を考えるに、おそらく自宅にある分はほとんど減っていないだろう。
 もっとも、仕方なくと言いつつ蒼葉を風呂に引っ張り込む口実になるので、自分にとっては役得なのだが。ただ今日はごく普通に汗を流してごく普通に一緒に浴槽に浸かっているだけだった。今のところは。
「あー、まだバレてない。今、蓮に探してもらってっから」
「そっか。見つかるといいな」
「……ん」
 表面に塗り付けたトリートメント剤をいくつかの毛束に分けてなじませていると、裸の肩がわずかに跳ねる。痛みはほとんど感じなくなったようだが、感覚自体が消えてしまったわけではないらしく、今でも髪に触られると反応を示す。
 はっきりとは言わないものの、痛みのかわりに肌に触れられるのと似た感覚の方が鋭くなっているらしかった。紅雀の方も黙っているが、髪を愛撫するときの反応を思い起こせば嫌でも気づく。
 気を紛らわせたいのか、あのさ、と蒼葉が切り出した。
「あのあと、すっげー懐かしい人に会ってさー」
 覚えてる? と、女の名前を挙げられる。こんな風に訊ねてくるということは、おそらく共通の知人なのだろう。髪の毛を軽く揉みながら記憶をたぐる。引っかかりは覚えたが、顔やいつどこで会ったのかが浮かんでこない。
「あっれー? 出てこねーの? 紅雀さんらしくな〜い」
 からかうような口調に、らしいってなんだよとむっとする。いくら数えきれないほどの女と遊んできたとはいえ、全員のプロフィールを完璧に覚えているわけではない。まして昔の知り合いというなら色恋も絡むかどうかあやしい。というか、絡まない。たくさんの女の子を可愛いとは思っていたし蒼葉にも詳しく話して聞かせていたが、実のところそういった関心は全部、目の前にいる幼馴染みに注がれていたからだ。
「ヒントいる?」
「いらねえ。もう降参でいいよ」
「えー? つまんねー、少しくらい粘れよ」
 カランをひねり、湯桶に用意しておいたタオルを熱めの湯に浸す。ついでにぬるつく手もすすいで、湯からあげたタオルを堅く絞った。
「ちょっと頭下げとけ。タオル巻くから」
「んー」
 タオルを後ろからあてると、温もりが気持ちよかったのか、蒼葉がふっと肩の力を抜いた。髪の生え際に沿って押しあてたタオルの両端を少し引っ張ると、つられるように顎を上げる。ずり落ちないように端と端を額のあたりで結んでやる。
 手のひらで頭を包むようにして巻いたタオルを整え、ぽんと叩くと、蒼葉がゆっくりと振り向いた。体の動きにあわせて浴槽の中の湯がかき混ぜられ、紅雀の胸元までさざなみが届く。少し緊張したような目をつかのま向けたあと、ふいとそらされた。
 いつもは前髪に隠れている額と眉とが露になるので、やたら無防備に見える。濡れて水滴を浮かべた右のこめかみを親指でなぞり、頬にたどりついたところで左の頬にも手を添え、包み込む。紅雀はそのまま身を乗り出してあどけない額に口づけた。唇を離すと、両腕を軽く掴んでいた蒼葉の手をとり、湯に沈めてやわやわ握ってやる。こんな風に黙ってされるがままになっているのも珍しかった。ややあって動いた指がそっと握り返してくる。
「で、答えは?」
「……ふーこ先生」
「──ああ」
 記憶の海の底で、小さな引き出しが開く。小学校で一度紅雀のクラスを受け持ったことのある教師の名前だった。先生をつけるのが当たり前だったから、普通の名前がピンとこなかったわけだ。
 教師になりたてで、まじめなのだけれどふんわり頭に花の咲いていそうな雰囲気の、せんせーしっかりー、としょっちゅう生徒に言われてしまうタイプの人だった。ませたクラスメイトなどはあいつ頼りないなーと言いながら彼女を構っていて、紅雀は何人かから先生が気になってしょうがない、と打ち明けられたものだった。
 蒼葉の担任もつとめた彼女は、紅雀が島を出たあとに結婚して島を出て行ったのだという。そうして、今日になってばったり再会したのだそうだ。道に迷っていたという蒼葉の言葉に相変わらずだなという感想を抱いた。
「なんかさあ、先生ってすごくね? 俺、最初誰だかわかんなかったんだけどさ。顔合わせてすぐ瀬良垣くんだよねって言うんだよ。そんなに覚えてるもんなんだなー」
「まあ、お前はいろんな意味で印象に残りやすいと思うけど」
 まず髪の色、それから顔。名前。性格。幼い頃の蒼葉に関わった人間にアンケートをとったなら、すぐに思い出せる者の率の方が高いのではないだろうか。蒼葉自身は自分が悪目立ちするだけの子供だったと思い込んでいるようだが。
「誰かさんの方が目立ってたじゃん。ところで紅雀くん元気? って訊かれたし。ところでってなんだよ?」
「セット扱いされてんだろうなぁ」
 なにしろ、学校での蒼葉はひとりでいるか紅雀といるかのどちらかしかなかったので。
「お前が島出てったの知ってんだから、連絡とってる? とかって前置きすんだろ普通。全然ねーんだけど」
「別にいいだろ」
 なんの不満があるのだか、蒼葉は納得がいかないようだ。
「帰ってくるまで音信不通でしたよね〜」
「……悪かったって」
 けっこう根に持つな、と湯の中から握っていた手を持ち上げ、指の付け根にも唇を落とすと、逆ハの字を描いていた眉が少しだけやわらぐ。
「元気にしてるって言ったら、喜んでたよ。お前が近くで仕事してるって教えといたけど、その様子じゃ会ってないか」
「見かけなかったなあ」
「んでさ、ちょっとだけ一緒にお茶飲んで近況とか話したんだけど。そしたらなんか、泣かれた……」
 戸惑ったような顔で、蒼葉は握られた手に力をこめる。
「懐かしかったんだろ。ずっと島には入れなかったしよ」
 紅雀が島に戻ってしばらくして、東江の許可なしには本土との行き来ができなくなった。蒼葉には言っていないが、迷っていた紅雀の背中を押した理由はそこにあった。いよいよ碧島は東江財閥によって封鎖されるらしいという情報を耳にし、今を逃せば本当に二度と蒼葉に会えなくなると思ったのだ。
 以来、郵便や荷物はやりとりできないこともなかったが、すべてが送られた者の手許に届いたのかどうか。ネットで買い物をするにも碧島には送りたくないと渋るショップが多かったし、法外な手数料を取るところも見かけた。
 ここ最近まで鎖国していたようなものだったので、船がまた運航するようになってからはかつて島を出た者が戻ってくる他に物珍しさから島を訪れる人間が増え、近頃の旧住民区はまるで観光地だった。このところほぼ毎日写真いいですかー、と声をかけられる。観光資源扱いはけっこうだが、取り巻きの女たちと火花が散ることがあるのが困りものだ。
「先生さあ、島出てからしばらく仕事やめてたらしいんだ。教師に向いてないって自信なくしたみたいで。けど、このままじゃだめだって思い直して復帰したって。俺見たらほっとしたって、先生のままで会えて良かった、って」
「…………」
 膝を立てて座っている蒼葉は水面に視線を落としたまま、湯の中の両足をかかとを軸にしてぶらぶら動かす。
「はっきり言われたわけじゃないけどさ。やめたのって、俺のせいなのかなって……。子供の頃の俺ってめんどくさいっていうか、先生にとってはも……んっ!?」
 鼻をつまんでやると、蒼葉はぎゅっと目をつぶった。続けて眉間を指で軽くはじいてやる。身じろいだ勢いでぱしゃんと小さく水音が上がった。
「そういうんじゃねえだろ。はっきり言われたんじゃないんなら、余計なこと考えんな」
「……でも」
 鼻筋を撫でている蒼葉を見据え、そこに幼い頃の姿を重ねながら口を開く。
「確かに、お前のこと持て余してる先生ばっかりだったよな。牛乳飲めなかったら居残りさせるだけ、いじめられててもフォローしてくれない、教室じゃひとりのまま放ったらかし。気づかないふりで無視するかおろおろするばっかりで何も助けちゃくれない。俺からしたらやめて当然っつか、いる意味ねぇって思ってた。ずーっと歯がゆかったよ」
 まだ蛹にもなれていない可愛らしいばかりの子供は待っていれば少しずつ言葉を発したし、言葉がおぼつかない分は表情や仕草で懸命に思いを伝えようとしていた。
 紅雀にはそれがわかったから、すぐに匙を投げてしまう周りの人間のことが不思議で仕方なかった。どうして蒼葉の気持ちに気づかないのか、理解しようとしないのか。いじめることしか知らないのか。
「紅雀」
 咎めるような声を無視して続ける。
「実際、お前はめんどくさかったろうな。ろくに喋れねえし、喋らせたらしどろもどろだし、お前のそんなとこに引いてる奴も多かっただろうよ。そのくせ無駄に可愛い顔してっから、気になってしょうがない。関わろうと思ったら言いがかりつけてつっかかるくらいしか、ガキには思いつかねえよなぁ。昔は意味わかんねえって思ってたけど、最近少しだけわかるようになったわ」
「……なんだよそれ」
「優しくすんのもいいけど、いじめんのもけっこう楽しいよなって」
「は?」
 ぼそりと呟くと、蒼葉が眉を寄せる。脱線した。
「──とにかくよ。そういうクラスからはみ出してる奴も含めて責任もって面倒みるのが先生ってやつの仕事だろ。家庭の方にも責任はあるかもしれねぇけど、学校ってのは1日の3分の1近くを過ごしてる場所なんだ。ひとりで何十人もってのはそりゃ大変だろうけどよ、わかっててなってるわけだろ。ひとりひとりに向き合おうって気持ちくらいもっといてくれねえと。安心して送り出せねぇだろ、親としてはさ」
 きょとんとしてから、蒼葉がふっと口から笑い声を漏らした。
「いつの間に子持ちになった? お父さん」
「いねえよ馬鹿。一般論だっつの」
 いてもおかしくないよなー、と目が語っている。くそ。こういうときは本当に己の過去の所業が呪わしい。お前あとで覚えてろよ、と細い首筋を目で撫で上げてから咳払いする。
「ま、そんなわけでだ。先生の場合、やめたのも戻ってきたのも、きっかけがお前だったとしても、お前が責任感じる必要ねえってことだよ」
「んー……?」
 膝に腕をのせ、指先でぱしゃぱしゃ湯を跳ね上げている蒼葉の片手をとり、指の間に自分の指を入れて握り込む。蒼葉の顎がかすかに上がった。
「ほっとしたとか、先生のままで会えて良かったとか、そういうことだろ。お前のせいじゃない。──俺だって、似たようなこと思ったよ」
 離してしまった手がいつまでも気がかりで、忘れられなかった。ことあるごとに思い出して、どうしているだろうかと考えて。心が折れそうなときほど笑顔が浮かんで、どうか幸せに笑っていてほしいと願っていた。
「大人になったお前見てさ。あんな別れ方だったし、てっきり殴られるか泣いてすがってこられるかすると思ったのに、けろっとしてやがって。肩すかしだったけど、笑顔見たら、帰ってきて良かったなって……すげえ安心した」
 再会した時の蒼葉の顔を思い出して、自然と笑みが浮かぶ。すると、握った手が少し引かれた。反射的に振り払われないようぐっと力をこめる。
「……それ、ちょっと違くね? 先生とお前とじゃさー……」
「ん? どう違うよ?」
 へえ、と思いながら蒼葉との距離を詰める。一応自分と他の人間との言動のニュアンスの違いくらいは認識しているのか。そして、自分の言葉や行動の中には確かに蒼葉の心を乱すものがあるらしいとわかって、胸に灯がともる。
「……いや、だから……、寄んなよ」
「なんで」
 湯を大きく波立たせながら後ずさるが、狭い浴槽の中のことだ。背中が当たったところで壁に手をついてしまえば、もう蒼葉に逃げ場はなかった。おとなしくしているなんて選択肢はないのだろうが、逃げれば逃げるほど煽られ、追いたくなるものだとは未だにわからないらしい。
「なんでって、──……っ」
 そむけられた顔を追うことはせず、首筋に吸いついた。唇を離しざま音をたててやると全身がびくりと震え、膝頭が紅雀の胸に当たる。構わずに体を密着させ、組み合わせた手を壁に押し付ける。
「ふ、……、っあ」
 首筋を舌でなぞり、付け根の部分に軽く噛み付いてやる。抵抗がゆるんだところで口づけた。無意識なのだろうが、触れたとたんに蒼葉の唇がわずかに開いて、思わず笑ってしまう。角度を変えながら食むようなキスを繰り返してから、深く塞いだ。差し込んだ舌先で蒼葉のそれをつつくと、おずおずと反応してくる。
「ん、……」
 蒼葉の手が紅雀の肩口に触れ、濡れた首の後ろをすべっていく。組み合わせた指に力をこめ、舌を絡めながら壁についていた手を離し、蒼葉の膝頭を掴んで開かせる。太腿を撫でたところで、ばさりと何かが落ちてきた。
「……あ?」
 目を開けると、巻いていたタオルがほどけて、蒼葉の髪がこぼれている。すっかり忘れていた。
「……なに?」
 少し遅れて、蒼葉も湯の中に落ちたタオルをぼんやりと見た。押し付けていた手を壁から剥がし、紅雀はふっと息をつく。
「頭、すすがねえとな」
「…………」
「髪乾かして……続きはそれから」
 こめかみに落ちかかる髪を梳きながら言うと、蒼葉が噴き出す。
「このまますりゃいいのに。せっかくその気になってんだから」
「してぇけど、絶対気ィ散る」
「はは。ばーか」
 首に回された手で背中をばしんと叩かれた。それから、鼻をぶつけるようにしてキスをされる。もう一度軽く啄んでから、早くすれば、と耳元で囁かれた。



 さっきの続きだけど、と切り出すと、蒼葉がかすかに身じろいだ。
「さっき……?」
 気怠げな声がシーツに吸い取られてゆく。ひとしきり抱き合ったあと、暑いとぼやく蒼葉の背に体をぴったりくっつけて横になっているところだった。腹や胸に手を這わせては払いのけられたりつねられたりと、さっきからつまらない戯れを続けている。
「先生のことな。──むしろ、お前は誇っていいと思うぜ。たぶんさ、お前みたいな子供が他にもいたとして、今度はほっときたくないって思ったから教師続けてんじゃないか」
「……あ」
「きっといい先生になってんだろうな。会ってみたかったわ」
 うん、と蒼葉が微笑む気配がした。どんなことを話したのかはわからないが、けしていい思い出のある相手ではなかっただろうに、すぐに思い出してくれたというだけであんなにうれしそうな顔をするのがどこか切ない。
 遠い国の蝶の羽ばたきが別の場所に嵐をもたらすという表現を思い出す。嵐というほど大きくはなくても、こんな風に蒼葉に影響を受けた人間が島の内外にどれほどいるのだろうと思った。そのうちまた面白くない気分になる人間が現れるかもしれない。現状で十分面白くないというのに、これ以上増えると面倒だ。
「あーもう、やめろってスケベ!」
「うん?」
 紅雀の手を掴み、蒼葉が体を反転させる。仰向けになったところで苦々しい顔をこちらに向けてきた。ついでにげしっと蹴られる。
「今って人の脚撫でるとこじゃなくね!? ほんと時々空気読めねーよなお前」
「べたべたしてるとこなんだし、触りたくなるだろ」
「触り方が! エロいんだよ無駄に!! もうすぐ歳とるからって、オッサンになりすぎなんじゃないですかー?」
 歳、と言われてふと思い出した。
「ところでよ。俺も今日、あのあとクリアに会ったんだけどな。お前、あいつと何かしてんのか?」
「……何かって?」
 あまりにもけろっとしている紅雀に気分を削がれたのか、蒼葉は諦めたように息を吐いた。掴まれた手が離されたところで掴み返す。そろりと指の表面を撫でてからゆっくりと指の間に自分のそれを割り込ませた。
「いや。『紅雀さんはほんとに果報者ですよね〜。僕、ちょっと妬いてしまいます』だのって言われたもんでよ」
「? なんだそれ」
「意味わかんなかったからとりあえず、羨ましいだろ、やんねーからって言っといたけどな」
 呆れられるのにも構わず、紅雀は笑う。カバ、と言い捨て、組み合わせた手に蒼葉が爪をたてた。皮膚に軽く食い込んだ爪がうっすらと三日月型の痕を残す。
「『当日を楽しみにしててくださいねー』とも言ってたかな。当日って、俺の誕生日のことか?」
「あー……、こないだ一緒に晩飯食ったから、そんとき話したんだったっけな……」
 もう一ヶ月ほど前になるだろうか。今日のように一緒に風呂に入っていたときのことだ。蒼葉から何か欲しいもんとかある? と訊かれたのだった。
 ──サプライズとか向いてねーし。誰かさんは色々もらうだろうから、してほしいことでもいいけど。あ、「お前」とエロいこと禁止なー。
 そんなわけで、特に思いつかなかったこともあって、とりあえずベタにお前の肉じゃが食いたい、と言っておいたのだ。お前少しは考えろよと思わないでもなかったが。
「お前がチームの連中と麻雀しに行ってたときだよ。婆ちゃんあのとき肉じゃが作ってたから、なんか流れで……ごめん」
「別に構わねぇけど。内緒にするようなことでもないだろ」
「言いふらされんのもやだし。なんかあいつ、すっげー大事件みたいに言いそうじゃん」
 ──みなさーん、マスターが紅雀さんのお誕生日に肉じゃがを作られるそうですよ〜。素晴らしいですねぇ、愛ですよねぇ……だのと言って感涙している姿が容易に浮かんで、紅雀は苦笑した。
「まあなぁ」
「あー、失敗したかな〜……でもなぁ……」
「?」
 ごろりとまた転がり、紅雀の方に体を向けた蒼葉がシーツに伏せる。手をほどき、そっと髪に触れる。いったん乾かしはしたものの、汗をかいて少し湿っていた。辛抱した甲斐あって満足のいく手触りだ。しつこく撫で続けていると、蒼葉がこちらを見た。文句をつけられるかと思いきや、唇からこぼれたのは想像していなかった言葉だった。
「……お前の一番欲しいものってなに?」
 ──まあいいか。エロいことは別に誕生日じゃなくたっていいし、一番欲しいもんは自分で手に入れるし。
 何が欲しいか訊かれたときに、こう言ったのを覚えていたらしい。
「当ててみな」
「……わかんねーよ」
 だから訊いてるんだろうと言いたげな目を向けられる。
「別に難しいことじゃねぇけど、簡単でもないなあ」
「もっとわかんねーって」
「だから考えろって」
 答えたら、蒼葉はそれをくれようとするだろうか。たぶん、するだろう。
 ただそれは、きっと言葉にすることではない。蒼葉が自然と気づくなら、それでいい。そういう類の望みだ。
「考えてるよ……」
「じゃあ、もっと考えな」
 考えて考えて──自分のこと以外、考えられなくなればいいのに。
 気持ちを確かめ合って互いの体液の味まで知るような関係になっても、紅雀の中にはまだそんな子供じみた欲望が根付いている。優しくして囲い込んで、蒼葉を殻に閉じ込めていた頃と同じに。つくづく強欲にできている、と自嘲の笑みが浮かんだ。
「──クリアじゃねーけど」
「ん?」
 目を閉じながら、蒼葉がぽつりと呟く。──楽しみにしててな。

 これが、誕生日まであと3週間ほどの日のことだった。



 ────やられた。
『紅雀。お前、ちょっと吸いすぎなんじゃねーか? ほどほどにしとけよ』
「あぁ」
 くわえた煙草から深く煙を吸い込み、吐き出す。闇の中を紫煙がゆったりとのぼってゆく。いつもの蒼葉の部屋のベランダで、ぼんやりと吸っては消しを繰り返している。かたわらの灰皿に目をやると、けっこうな本数の煙草が転がっていた。
『この本数で紅雀の体内に吸収されるニコチン量は──』
『れーん、そんなんどうでもいいだろ。おっせえなあ、蒼葉。呼んでくるか?』
「いや。構わねぇよ」
 蒼葉は階下でタエと後片付けをしている。手伝おうと思ったが、今日の主役はさっさと風呂にでも入って休んでいろと追い立てられた。風呂から上がっても蒼葉は部屋に戻っていなかった。何か話でもしているのだろう。そんなわけで今、紅雀は手持ち無沙汰に煙草をふかしている。
 ふわふわと落ち着かない気分が数時間前からずっと続いていた。自分が立っているのは間違いなく堅い木でできたベランダのはずなのだが、どうにも足元がおぼつかない。まるで浮いているみたいに。
 ベランダの手すりの上、灰皿とは反対側に立っているベニがばさりと羽を広げる。
『けどよ。まさか蒼葉があんなもん用意してるとは思わなかったよなぁ。蓮は知ってたんだろ』
『知ってはいたが、口外は一切禁じられていた』
「ったく、すっかり騙されたぜ。汚ねえ大人になりやがって」
『紅雀の部屋にいるときや体調のすぐれないときは例外として、蒼葉は毎日きちんと風呂に入っているが』
『いや、それかなりズレてんぞ……』
「…………」
 蒼葉が部屋に来たとき、風呂にも入らず爛れた行為にふけることがあるのは否定しない。ぐちゃぐちゃのどろどろになったまま朝まで眠り込んでしまうこともざらだった。
 ベッドに行くときはスリープモードにしているとはいえ、オールメイトにはパートナーの健康状態を自動的にチェックする機能が搭載されているから、指摘されないだけで蓮とベニには何もかも筒抜けなのだろう。特に蒼葉の方は。
 やや気の毒に思うが、今さら役割を替わるわけにもいかない──というか、そんな気はさらさらないので諦めてもらうしかない。それにしても、風呂に入ったかどうかまでチェックされているとは。ベニはそのあたり、大して頓着しないだろうが。
「──蒼葉!! なんだいその格好! みっともない! いくつになったと思ってんだい!?」
 と、階下からタエの怒声が聞こえた。なんだ? と思っていると、ごめんごめんという声とともにどたどた階段を上る音がする。部屋に入ってきた蒼葉を見て、指の間から煙草がこぼれ落ちた。
『……蒼葉』
『うわっ、おい! 危ねーだろ!!』
 まっすぐ風呂に入ってきたのだろう、まだ大粒の雫を垂らす髪を揺らした蒼葉は、腰にタオルを巻いただけの姿だった。適当に拭って出てきたのか、肌にはまだ濡れているところもある。
 裸を見慣れているといっても不意打ちもいいところで、気づけば紅雀はとっさにてのひらで鼻を覆っていた。蒼葉と付き合い始めてから身についた悲しい反射だった。
『紅雀ー、煙草!』
「あ、おう……」
 手にしていた缶ビールをテーブルに置き、腕に抱えた服をベッドにばさりと投げている蒼葉を視界にとらえたまま、紅雀はのろのろとしゃがんで煙草を拾った。息を深く吸い込んでみると、幸い血の匂いはしなかった。
「お前、なにしてんだよ……」
「や、着替え取りにくんの面倒でさー。バレねーと思ったのにな」
 ちぇっと舌打ちしながら、なぜかこちらに近付いてくる。窓際まで来たところで紅雀を見て、笑った。胸元をつっとひとすじ雫がすべっていくのが目に入った。
「覗かないでくださいね〜」
 カーテンをさっと引かれる。覗かねぇよと返しつつ、布一枚を隔てて動いている影から目が離せないあたり我ながら心底馬鹿だ。煙草を灰皿に押し付けてふてくされていると、ベニが口を開いた。
『あれ、なんかのサービスか何かか?』
 いや、どっちかっていうと焦らしプレイだろ。そう思ったが、もちろん口には出さなかった。



 寝間着を身に着けて再び姿を見せた蒼葉は、当然髪を乾かしていない。いつもならうるさく言うところだが、今日はそんな気になれなかった。仕方ない。今日は特別。
「おつかれっしたー」
 蒼葉の持ってきた缶ビールで改めて乾杯して、ぐいと流し込む。そこで初めて喉が渇いていたことに気づいた。口の中を湿らせてふっと息をつき、隣に並ぶ蒼葉の肩を軽く小突く。
「サプライズ向かないとか嘘じゃねぇか。こら」
「へっへっへ〜。ま、偶然ですけどー」
 してやったりという顔で蒼葉が笑う。
 クリアやら知り合い連中が集まっているのだろうと思って訪れた瀬良垣家には、蒼葉とタエと蓮しかいなかった。台所ではいつもと変わらずタエと蒼葉があれこれ言い合いながら火や水を使っていて、いつもより食事の内容が豪華なところ以外は至って普通の食卓が待っていた。
 異変に気づいたのは、蒼葉が箸置きに箸を置いたときだ。初めて見る塗り箸だった。天然木の木肌を生かし、やや無骨に削られたそれを新調したのかと見ていた紅雀の目の前に、タエがちらし寿司の盛られた茶碗を置いた。これまた見たことのないものだった。つるりと光沢を放つ緑がかった青磁の器の内側には上品な芙蓉が咲いていた。
 全員の定位置に同じ箸と茶碗が置かれ、さ、食べるよ、と席についたタエに、蒼葉が婆ちゃん、と焦れたように声をかけた。口を開かないタエに痺れを切らして、蒼葉が茶碗を指差して言ったのだ。
 ──これ、婆ちゃんから。
 今度は箸を指差し、首を傾けながらふわりと笑った。
 ──これは俺。誕生日おめでとう。
 しばらく意味がわからなかった。ぼんやりしている紅雀に、押し入れから出てきただけだよとタエがすげなく告げる。蒼葉を見ると、わかる? と言いたげに笑っている。もう一度タエを見ると、名前を呼ばれた。なぜかすっと背筋が伸びた。ひとつ聞かせてくれるかい。いつもと変わらない厳しさをたたえた目に見据えられ、こう言われたのだった。──あんた、蒼葉を最後の相手にする覚悟はできてるんだろうね。
 ちょっと婆ちゃん、なに言ってんだよと慌てふためく蒼葉の手をとっさに握っていた。ぎょっとしてこちらを見た蒼葉には構わず、紅雀は口を開いた。答えなんて、考えるまでもなかった。
 ……そうして、ようやく紅雀と蒼葉の付き合いは、黙認からどうにか公認、くらいの位置にたどりついたのだった。
「あーほんと、死ぬかと思ったわ」
「こんなんで死ぬなよなー。大事にしてくれんだろ」
 慌てていた自分は棚上げして、蒼葉が手すりに突っ伏した紅雀の背を叩く。顔を上げ、微笑んでいる蒼葉の薄茶色の目を覗き込みながら、紅雀はふっと笑った。
「そりゃあもう。嫌ってくらいにな」
「ふーん」
 そっけなく答えてビールに口をつける頬がほんのりと赤いのは、たぶん風呂上がりだからというだけではないだろう。
「肉じゃが、うまかった」
「でも、婆ちゃんのと全然違うし」
「そりゃあ仕方ないさ。俺は気に入ったけど?」
 クリアの言葉を思い出すに、おそらく今日までに何度か練習でもしたのだろう。蒼葉にしては材料の切り方も味付けも大雑把でなく、折り目正しい肉じゃがが出てきた。タエのものと比べるとどうしても作り慣れない感が拭えなかったが、紅雀の口には合ったし、何より自分のことを考えて作ってくれたのがうれしい。練習だぜ練習、とその姿を想像していると思わず顔がだらしなくゆるんでしまう。
 紅雀の言葉に小さく笑ってみせてから、蒼葉はぽつりと呟く。
「……俺、イタコだったらよかったなー……」
「あ? これ以上特殊スペックいらねぇだろ。なんだイタコって」
 突然何を言い出すやら。
「…………」
 蒼葉は手すりを握って黙り込んでしまう。肉じゃがの出来によほど納得がいかなかったらしい。食べているとき、蒼葉が一番不満そうだった。まだまだだねぇ、とタエに言われて言い返すでもなく目を伏せていた。半分ほどに減った缶を軽く振りながら、紅雀は時折まばたく睫毛を見つめる。
「それに、今日だけじゃなくてずっと作ってくれりゃいいよ」
「あー、うん……そうだな……」
 上の空の答えが返ってくる。手すりに置かれた手をつつくと、やっとこちらを向いた。
「お前、わかってる?」
「ん?」
「ずっとって言ってるだろ」
「うん」
「気づけよ」
「……何に?」
 首をかしげられる。まあそうだろうなぁ、苦笑して諦めて、紅雀は残りのビールを呷る。飲み干してしまってから隣を盗み見る。半乾きの髪をぬるい風に晒して、蒼葉もビールの缶を傾けていた。
「蒼葉」
 手を伸ばして髪に触れる。水分を含んでいる分手触りを楽しむというわけにはいかないし、重い。乾かしてやるかなと思いながらこめかみの生え際から指を差し込んで根元からかきあげると、気持ち良さそうに目を閉じた。自然と体が動いていて、気づけば蒼葉の唇に自分のそれを重ねていた。
 もう早くから紅雀は瀬良垣家の客ではなかったが、あくまで図々しく上がり込めるというだけの他人だった。蒼葉とタエはそれぞれ自分を兄のように孫のように見てくれていたものの、家族ではなかった。今日、二人から茶碗と箸をもらったことで、ようやく本当の意味でこの家に迎え入れてもらえた気がする。タエに蒼葉の恋人として認めてもらえたこともうれしかったけれど、同じくらいそのことが紅雀を高揚させていた。
 背中に腕を回して、自分よりもひとまわりは細い体を抱きしめる。密着した胸と胸が鼓動を伝え合って、互いの体温とともに溶ける。そうすると、ふわふわと落ち着かなかった気分がやわらぐようだった。ずっと特別な存在だったけれど、寝顔を見て欲が蠢くのを知るまで、こんな風に蒼葉のことを愛おしく思うことがあるなんて考えもしなかった。
「……ありがとな。蒼葉」
 唇を離し、蒼葉の目元に軽く口づけてから肩口に顔を埋めると、こつんと頭がぶつけられる。
「俺、婆ちゃんに乗っかっただけだし。ほんとラッキーだったな。……婆ちゃんに感謝しねーと」
 穏やかな声が耳の近くで響く。
「あの茶碗、ほんとに押し入れから出てきたんだよ。でも二つしかなくってさ。俺らで使えって言われたけど、どうせならみんな一緒のがいいじゃん?」
「……あぁ。蓮に探させてたのってあれか」
 つまり、あのあたりから騙されていたわけだ。少し癪に触る。よくもまあ、ぼろを出さなかったものだ。
「婆ちゃんの気に入ってる皿とか絶対割らねーよ。殺されるって」
「ま、そんときは一緒に逃げてやるよ」
「なんだそれ」
 くくくと笑われる。
「あー、でもほんとよかった。婆ちゃんもさあ、別にとっくにお前のこと許してんのに、今更言えない感じだったじゃん? 色々すっきりしたよなー」
「そうだなぁ。おかげさんで、次のお前の誕生日プレゼント決定だわ」
「なに?」
 蒼葉の体を解放して、左手をとる。薬指をそっと撫でた。自分とは違う、傷ひとつない指。この指がずっときれいなままであればと思う。
「指輪」
「は?」
 自分の手を見て、数秒してから、蒼葉の目がうろうろしだす。
「……え、いや、いいです……」
 頬が赤らんでいくのが、猛烈に可愛い。握っている蒼葉の手がじんわりと汗をかく。振り払おうという気も回らないらしい。紅雀はほくそ笑んだ。
「なんで」
「ぜってーお前のファンに殺されるし。だいたいなんでここ!?」
「お前、俺がタエさんになんて言われてなんて答えたかもう忘れたか? どんだけ記憶容量乏しいんだよ」
「忘れてねーよ! ……でも、こうさ……なんか……まだ早いっつか。心の準備が」
 落ち着かないのか、蒼葉は空いた手を握ったり開いたりしている。
「ふうん?」
 にやにやしていると、俺、と蒼葉が目を伏せてぽつりと呟いた。
「お前のこと好きだし、一緒にいたいって思うけど……正直まだ慣れてねーんだよ。色々」
「…………」
「体はまぁ、あれだけど。なんかもう、だめになりそうってか、そんくらいいいんだけど」
 ため息と一緒にそんなことを言われて、心臓が跳ねた。思わず喉を鳴らした紅雀の手も次第に湿っていくようだった。蒼葉はなんとも思っていないのか、掴まれた手を握り返してぶらぶら振った。
「なんかさ、当たり前に一緒にいんのが不思議……夢みてー……とかって、たまに思う、ようになった……」
 一度切れた縁を結び直して、余計な結び目をほどいて、ほつれたところを直して。そうしてやっと、ふたりでここにいる。
「こんな風にさ。お前の誕生日祝えるのとかも、わりとおおごとなんだ、俺にとっては。だから──」
「わかったよ」
 ふっと息をついて、紅雀はもう一度蒼葉を抱きしめる。湿った襟足のあたりをぽんと叩いて、
「急がねえから。ちゃんと待ってる」
「……ん」
 簡単に手に入るかもしれないし永遠に手に入らないかもしれない、紅雀が本当に欲しいもの。男と女なら紙切れやアクセサリーで体裁が整えられること。でも本当は、それで手に入ったことにはならない。一生持っていられる保証なんてどこにもない。
 心臓に一番近いという指。そこに金属の輪っかを嵌めたところで蒼葉は蒼葉自身のものなのだけれど、子供じみた自己主張だと笑われてもいいから、気づくたびに自分のことを思い出すような、繋がっていられるような何かを身につけてほしかった。
「そろそろ寝るわ。おやすみ」
「こっちで寝ねぇの?」
「そこまで調子乗れねぇよ。それに、近くで寝てたら何するかわかんねえし、帰るわけにもいかねえし……、って笑うな」
「ごめん。お前、ほんと俺のこと好きなー。時々びっくりすんだけど」
「俺なんかいつもびっくりしてるっつの」
「はは。ありがと、うれしい」
 両腕を掴まれ、ん? と頭を下げたところで、伸びをした蒼葉がそっと唇を触れ合わせた。
「……明日は、お前んち行くから」
「覚悟しとけよー」
「何をだよカバ」
「ふふん。あー、ちゃんと髪乾かせよ」
 さて明日は何をしてやろうかと考えながらいつの間にか蓮と一緒にいつものクッションの上に移動していたベニを回収しようとしたところで、あ、と蒼葉が声を上げた。紅雀、と後ろから帯を引っ張られる。
「?」
「──あのさ。もうひとつ、今日お誕生日の紅雀さんのために隠し球があんだけど」
「は?」
 そう前置きされ、神妙な顔をした蒼葉から見せられたのはA5サイズの封筒。宛先は蒼葉だ。青柳通りにある郵便局の消印が捺されている。
「昨日届いたんだ、ふーこ先生から。俺と紅雀に」
「俺?」
 持っているものより一回り小さい封筒を抜いて渡される。表に紅雀の名前が書かれていた。受け取ったそれを開封し、送り状らしき紙を広げると、「御成人おめでとうございます」という見出しの文書だった。
 はて、だいぶ昔の話だなと本文を途中まで読んだところで顔を上げ、蒼葉を見た。……何かとんでもないものが来た、と視線をかわす。
「お前、読んだか?」
「まだ」
 10歳の頃だ。授業で、将来の夢について作文を書きましょうと言われた。20歳の半分だから、10歳は半成人です。みなさんが成人を迎えるときに、先生がこの作文を届けようと思います。
 そうして書いたものが、この封筒の中にある。本来はもっと早く届いているべきものだったが、届くかわからない状況では送るに送れなかったのだろう。
「どうするよ」
「すっげーイタい気分になると思うけど、読んどきたいかな」
「じゃ、読もうぜ。今。思いきって」
「だな」
 封筒には二つ折りにされた色画用紙が入っていて、「半成人のぼく・わたし」というタイトルのラベルの下に学校内で撮られたとおぼしき写真が貼られていた。そういえばこんなものを撮ったなと思い出しながら色画用紙をこわごわ開くと、原稿用紙のコピーが1枚、折り畳まれた状態で固定してあった。
「……せーのでいい?」
 頷くと、蒼葉がじゃあ、せーの、と声をかけた。開いてみて「ぼくのゆめ」というつたない自分の字が見えた瞬間、すぐに閉じたくなったが、勇気を振り絞って次の行に目を移す。


  「ぼくのゆめは、早く大人になることです。今はまだなりたい仕事はありません。
   大人になったら、早く働いて、お母さんを支えて楽をさせてあげたいです。
   うちはお母さんとぼくの二人家族なので、一人でぼくを育ててくれるお母さんが心配です。
   肩を叩いてあげたり、おいしいものを食べたり、旅行に連れて行ってあげたりしたいです。
   たくさん好きなことをさせてあげたい。
   それから、幼なじみの蒼葉のことも守っていきたい。蒼葉にはぼくがついていないといけないので、
   今よりもっと強くてかっこいい大人にならなければいけないと思います。とてもいそがしいです。
   ぼくにはまだできないことがたくさんあります。それを、早くできるようになりたい。
   大好きなこの島でみんなが笑っていて、幸せな日をすごせるようにがんばりたいです。」


 突っ込みどころはいくらかあるものの、予想していたよりもまともな文章だったことにほっとした。
 ただ、問題は内容だった。母親はともかく、当時の自分の世界がどれだけ蒼葉を中心に回っていたのか思い知らされるようだった。文字数が限られているからこその本音だろう。自覚していたとはいえ、今と大して変わらないところが何より痛々しい。それとも、「世界中の女の子を幸せにしたいです」よりはましだろうか。
 余白には、先生からのコメントがかわいらしい字で簡潔に書かれている。曰く、「お母さんや蒼葉くんのことがとても大切なんですね。紅雀くんの夢がたくさん叶うといいですね。」……的確すぎて、どうしようもない。そして、少し苦い気持ちになった。ここに書いたことの半分は結局叶わなかった。
 ちらりと蒼葉の様子を伺えば、食い入るように、というより、床にめりこみそうになりながら原稿用紙を見ている。視線に気づいたのか、ふとこちらを見た。とたん、みるみる顔が赤くなる。口を開こうとしたところで体ごとそっぽを向かれてしまった。いったい何を書いたのやら。
 色画用紙を封筒に戻そうとしたところで、まだ何かの紙が入っていることに気づいた。コピー用紙がもう1枚とすべすべの真っ白な便箋。便箋を開くと、手書きの文字が目に飛び込んでくる。作文に書き込まれたものとは印象の違う、丁寧な字だった。


  「紅雀くん、お久しぶりです。

   この間、瀬良垣くんに教えてもらって、お仕事しているところを見させてもらいました。
   なりたい仕事はないと作文に書いていたあなたがいきいきとお客さんの髪を切っている姿を見られて、
   とても嬉しかったです。
   あなたもお客さんも幸せそうな顔をしていて、私も幸せな気持ちになれました。
   素敵な仕事に出会えてよかったですね。

   残念ながらお話はできませんでしたが、きっと昔のまま、お母さんや瀬良垣くんのことを
   大切にできる優しい男性になっているのでしょう。
   相変わらずたくさんの人に囲まれて、女の子にも人気があるみたいですね。
   でも、あなたは少し他の人のことばかり考えすぎるところがあると思うので、
   時々寄りかかってひと息つかせてくれるような人を見つけてください。
   もしそんな人がそばにいるのだったら余計なお世話でしょうから、読み飛ばしてしまってください。

   連絡先がわからず送れずじまいだったので、瀬良垣くんにあてて送らせてもらっています。
   すっかり遅くなってしまいましたが、是非読んでみてくださいね。
   あなたが大好きな島に戻れていたこと、二人が変わらず縁をつないでいてくれたことが
   自分のことのように嬉しいです。

   あなたの過ごす毎日が、どうか幸せなものであるようにと願っています。」


「…………」
 この間。
 そういえば、蒼葉が言っていた。紅雀がその日仕事をしていた場所を教えたのだと。顔を合わせることはなかったから、てっきり辿り着けなかったのかと思っていた。まさか知らない間に見られていたとは。それから書いてくれたのだとわかって、胸の内があたたかくなる。
 紅雀が夢として書いたことは、大人からしてみれば醒めて見えるだろう。今の自分が「早く大人になりたい、なりたいものなんてないけど働きたい」と言う子供を見たならきっと残念な気持ちになっただろうし、野球選手になりたいとかケーキ屋さんになりたいとか、そういうふわふわした綿菓子のような夢の方が可愛いに違いない。
 それだけに、あの可愛げのない作文から紅雀の心情を汲み取ってもらえたことがうれしかった。予期しないところまで見抜かれているのが気になるところだが。
「……蒼葉」
 隣を見ると、蒼葉も同じ便箋を手にしていた。名前を呼ばれてのろのろ顔を上げる。少し目が潤んで見えた。
「どうした?」
「なーんかさあ……、先生って、やっぱすごくね?」
 泣き出しそうな顔で笑って、便箋を差し出してきた。受け取って目を落とす。


  「この間は、瀬良垣くんに会えてとても嬉しかったです。
   少ししかお話しできなかったけど、本当に立派な大人になりましたね。

   瀬良垣くんの担任だった頃、あなたときちんと向き合うことができなかったことが
   ずっと気がかりでした。
   島を出てから紅雀くんといる時のあなたの姿を思い出して、もっと話をすればよかった、
   あなたにはきっと誰かに伝えたいことがたくさんあったろうにと何度となく思っていました。
   でも、あなたに会って、余計な心配だったなと思い直しました。
   悲しいこと、つらいことがたくさんあったでしょう。でもあなたはそれをたくましく乗り越え、
   きっと喜びもたくさん知って、笑顔の似合う素敵な男性になれたのでしょうね。

   あなたが苦しんでいた時になんの力にもなれなかったことが悔やまれてなりませんが、
   今のあなたを知ることができて幸せです。
   少しでもあなたの人生に関われたことを誇りに思います。

   紅雀くんが島に戻ってきてくれて良かったですね。昔と変わらず仲良しのようで安心しました。
   彼やご家族、お友達を大切に、感謝の気持ちを忘れず、これからもあなたらしく
   生きていってください。」

 
「反省文だな」
 にべもなく言うと、蒼葉が表情を曇らす。
「そういうこと言うなよ。……いいんだよ。俺は」
「まあ、今のお前を知れて良かったってのと、お前の人生に関われて良かったってのは同感だわ」
「…………」
「本当にさ。会えて良かったよ、蒼葉に」
 蒼葉に会わなかったとしても、人並みの幸福は得られたかもしれない。罪を背負わないですむ人生を歩めたのかもしれない。それでも、今こうして隣に蒼葉がいてくれることが、自分にとっては最良の選択だったのだと思える。
「──うん」
 肩に蒼葉の頭が乗せられる。あー今けっこう恋人っぽいな、という気分になったが、口にすればきっとまたお前空気読めねーなと文句を言われるだろう。こういうところで昔何度か失敗してしまったので、そろそろ学習しなければならない。
「なあ。こんだけ見せたらもう、お互いのやつ全部見せ合おうぜ」
「えー?」
「気にならねえ? 『ぼくのゆめ』」
 目の前で紙をひらひらさせると、蒼葉はうーんと目を泳がせる。やがて息をつくと、渋々封筒を差し出してきた。物々交換で蒼葉の手にも持っていた紙を渡してやる。
「読んだらすぐ返せよな」
「はいはい」
 写真の中の蒼葉は、少し憂鬱そうな顔をしていた。普通にしてても可愛いけど、笑ったらもっと可愛いのに。いつも笑ってればみんな蒼葉を放っておいたりなんかしないだろうに、そう思いながらも、ひとりじめしたくて仕方なかった。
 蒼葉は昔の自分をやたら格好いいものとして記憶しているようだが、蓋を開ければこんなものだ。そう思いながら作文を開くと、当時の見た目からは想像しづらい、原稿用紙のマスから飛び出しそうな力強い字が並んでいた。


  「ぼくのゆめは、強くてかっこいい大人になることです。
   ぼくはめいわくをかけてばかりなので、だれにもめいわくをかけない大人になりたいです。
   かっこいいのは、こうじゃくみたいな人のことです。
   いつもぼくにやさしくしてくれて、大好きです。
   ぼくは大人になったらこうじゃくにおん返しをしたいです。
   がんばってこうじゃくに追いつきたいです。
   ぼくは、ばあちゃんを支えて、いつでもお父さんとお母さんが帰ってくるように
   守りたいと思っています。
   まだ弱いから、少しずつ強くなれたらと思います。
   牛にゅうが飲めるようになってきたので、がんばればきっと強くなれると思っています。
   この作文を見たら笑えるくらいりっぱな大人になっていたい。
   大好きな人たちといつまでもいっしょにいたいです。」


  「紅雀くんのことが大好きなんですね。
   そんけいする人がいて、目標があればきっと強くなれますよ。」


 ……なんだかもう、これは。こみあげてくる笑いを抑えられない。
「なあこれ、ラブレターか何か?」
「うるさいなー、いいよもうそれで。俺、こうじゃくがだいすきー」
 肩を蒼葉に擦り寄せると、やけくそのように返事をされる。横を向かれていて表情はわからないが、耳が少し赤い。そういえばさっきも真っ赤になっていたっけと思い至って、ということは作文を書いた蒼葉の言うところの「りっぱな大人」というやつは、今の蒼葉にはまだ遠いらしい。
 それにしてもまあ、お互い狭い世界の中で向き合っていたとはいえ、どれだけ相手のことばかり考えているのだろうと我ながら呆れる。
「あー、先生、お前のこと見てたんだ。なんかおかしな真似してなかったろうな」
「してねえよ」
 もしかしたら、観光客と紅雀の客の小競り合いだとか、最近やたらぶつかっているチームの若いメンバーとこれまた紅雀の客のくだらない喧嘩だとか、そういうのを見られている可能性がないとは言いきれないが。
「お前さ、ほんと髪結いになって良かったよなー。みんなニコニコして帰ってくもんな。見ててすげー楽しいよ。天職ってああいうことだよなぁ」
「褒めても何も出ねぇぞ」
「別にいいよ?」
 天職を自分に与えた張本人はろくにその自覚もなく、けろっとしたものだ。
 もうおよそ乾いてきた蒼葉の髪を見て、次はいつ切ってやろうかと考える。前髪の長さや全体のボリュームを少し変えてみたいな、などと思っていたところへ、
「……あれっ」
 まだ紅雀も中身を見ていなかった紙を広げた蒼葉は、声を漏らしたあとにそれをすぐ閉じた。
「蒼葉?」
 黙って手渡されたそれを開いてみる。直筆の手紙のコピーだった。知っている字だ。子供の頃、書き置きに使っていたメモ帳や回覧板、学校に提出するプリントでいつも見ていた、凛とした綺麗な字。紅雀の自慢のひとつだった。褒められると自分のことのようにうれしかった。
 作文を書いた頃、おうちの人に渡してくださいねと封筒を預かったのを思い出した。このまま先生に渡してね、と糊付けして手渡されたその中身が、おそらくこれだ。……20歳のあなたへ。そう書いてあった。
「…………」
 紙をたたんでうつむいた紅雀の手に、そっと蒼葉の手が重なる。
「……読めねえわ。今は」
 きっと泣いてしまう。今夜は色々なことがありすぎて、耐えられそうにない。蒼葉は何も言わずにそばにいてくれるだろうが、それでも今は中身を見る気にはなれなかった。
「紅雀」
 ──いつでも。と、重ねた手に力をこめながら、蒼葉が言った。
「寄りかかってくれていいから。お前が、そうしたいときに」
 手から伝わる熱が沁みて、それだけで泣けそうだった。



 そうして結局、紅雀は蒼葉の部屋の狭いベッドで眠る羽目になった。生殺し状態から解放されたと思いきや、また生殺し。さすがに今日はもう、不埒な真似をする気にはなれなかったけれど。
「……前にさ。ミズキに、お前らって中学生みたいだって言われたことあったんだけど」
 暗闇の中、目をつぶった紅雀の耳にそんな声が届く。
「は?」
「なんか、やっとハタチになれたかなって感じする」
「おっせえなあ」
「お前もだよ、カバ。同い年だよ」
「……意味わかんねぇ」
「紅雀くん」
「なんだよ」
 さんづけは慣れたが、これは気味が悪い。身構えると、衣擦れの音のあと、近くで蒼葉の気配がした。
「誕生日おめでとう。……俺も、紅雀に会えて良かった」
 ややあって、ふくくく、と笑い声が上がる。こうじゃくくんだって、なんかへん。きもちわりー。
 このやろう。ならこっちはあおばちゃんとでも言ってやろうかと思ったが、いやいやそれは中学生どころか小学生レベルだろうと思い直してやめた。布団の中、蒼葉の手を探り当てて握り、もう寝ろとたしなめると、しばらくしておとなしくなった。
 幼い頃、何も知らなかった自分たちが思い描いた未来は、すべてが思い通りに叶ったわけではないけれど──そのいくつかは、確かにお互いの隣にある。
 今度ミズキに言っとこうかな。笑いまじりに、蒼葉がそう呟いた。眠りに落ちるまで、手が離れることはなかった。