Drifter

 月のきれいな夜だった。

「完全に潰れてるな」
 ソファに寝そべっている塊を眺めながら、紅雀はグラスを傾けた。
 隣で同じようにソファを見ていたミズキが肩をすくめる。褐色の肌と左目の下に施された涙型のタトゥーが印象的で、一度見かけたら忘れられない風貌をしている。
「お前があんまりいじるから」
「いじる? 人聞き悪ィなぁ」
 紅雀が碧島に戻ってから二ヶ月ほどが経とうとしていた。
 幸い、髪結いの仕事は思ったよりも早く軌道に乗って来ていた。流しでやっているだけに絡まれたり喧嘩に巻き込まれたりと多少のトラブルはつきもので、街でゴロツキどもに囲まれているところへ通りかかったのが、紅雀の幼馴染みとその友人、ミズキだった。
 腕に覚えのある紅雀とて、一度に大勢を相手にするのは骨が折れる。二人の手を借りてゴロツキを蹴散らした後に互いを紹介され、三人で飲みに行く流れになったのが数日前。そうして、今に至るわけだが。
「昔話しただけだろ」
「ま、面白い話は聞けたけどさ」
「な」
 にやりと笑い合う。知り合ったばかりだというのに、たった数時間酒を酌み交わすうちにすっかり打ち解けてしまった。ミズキが話していて気持ちのいい男なのもさることながら、今日の肴が、目の前で潰れている紅雀の幼馴染みだったからだ。名前を蒼葉という。
 歳は飲酒を解禁されたばかり。青い髪を長く伸ばし、女性的というわけではないがきれいな顔をしていて、何より表情の豊かさが目を惹く青年だった。こいつ、 ガキの頃はほんっと女みたいで可愛らしくてなぁ、そのあたりから話題が蒼葉一色に染まっていったのだったか。紅雀の知る蒼葉とミズキのそれが重ならなかったので、よけいに盛り上がってしまった。
 特にミズキと知り合った頃の蒼葉のやんちゃ時代とやらは興味深く、「もういいだろ〜…」と止める本人を無視して色々と聞き出してしまったので、腹を立てた蒼葉は酒を呷りに呷り、ソファとお友達になってしまった。腕の中では小型犬の姿をした彼のオールメイトが一緒に寝息をたてている。成り行きを知らなければ、ただ和むばかりの光景だった。
「蒼葉、明日もバイトなんじゃないか? 生きてっかな」
「若いし、なんとかなんだろ」
「遅刻しないといいけど。このまま俺んとこ泊めるか? 動かないだろ、これ」
 ここはミズキが経営しているバーだ。この界隈では最大規模を誇るリブスティーズのチームを束ねる傍ら、彫師としてバーを兼ねたスタジオを持っているという。
 精力的な奴だと思う。紅雀にはとても真似ができそうにない。自分には気の向くままふわふわと生きるのが性に合っている。適度に稼いで美味い食べ物と酒とを楽しみ、女の体温に慰めを得る。ここ数年、ずっとそうやって過ごして来た。それだけに、ミズキの姿はやや眩しく映る。
「そうだな……」
 空になったグラスを置き、紅雀はスツールを立った。ソファの背に手をかけ、蒼葉の寝顔を覗き込む。
 青い髪や目、ひとつひとつのパーツでこれは蒼葉だという認識はできているのだが、島を離れていた時間の長さのせいか、未だに成長した蒼葉の姿に違和感があった。こんな時にはつい、観察するように見てしまう癖がついた。
 見慣れない堅さを描く輪郭を目でなぞりながら、紅雀は幼馴染みの名を呼んだ。
「蒼葉」
 あおば、ともう一度ゆっくり口にすると、閉ざされた瞼が震えた。
「…………」
 伏せた睫毛が持ち上げられ、薄茶色の瞳が露になる。床に膝をついた紅雀と目が合うと、唇がかすかに開く。
「……ぁに」
「ミズキんとこ泊まるか? それとも帰るか?」
 旧住民区において、乗り物の類は役に立たない。昼夜を問わずそれは変わらない。泊まらないというのであれば自分が連れ帰るはめになるわけだが、果たして。
「こうじゃくんち……」
 蒼葉は再び瞼を下ろし、オールメイトを抱え直しながらそう言った。
「あ?」
「こうじゃくんち、いく」
 思わぬ変化球だった。
「はは、お持ち帰りコース」



 色気も何もねぇ土産だけどな。
 ミズキの言葉を思い出しながら、紅雀は鍵を回す。反対の腕をがっちり掴まれ、肩に体重を預けられているという格好だけはお持ち帰りという表現にふさわしいのだが、あいにく蒼葉だ。
『置いて帰りゃよかったのに、バッカだな〜』
 蒼葉を支えて歩く道すがら、たまにはナビでも使うかと起動した自分のオールメイトがあまりにもピーピーわめくので、早々にスリープモードに戻してしまった。蒼葉のオールメイトと一緒に彼のカバンへ放り込んである。
『道端で寝てるわけじゃなし。ガキじゃねーんだから、放っといても平気だろ』
 確かにそうだ。自分が帰ったところでミズキが面倒を見てくれただろうし、長い付き合いならば泊まるのにも慣れているだろう。あそこで蒼葉に声をかける必要があっただろうか。
 その時は感じなかった疑問が、今になって湧いてくる。何故そうしたのか問われれば、なんとなく、と答えるしかないのだが。
 それにしても、自分の部屋に行きたい、という返事は想定外だった。
 何度か訪ねて来たことはあったが、蒼葉はあまりここに寄り付かないからだ。泊まるのは初めてのことだった。
「あーおば。着いたぞ」
 蝶番が錆びてきているのか、ここ何日かで開閉するたび軋むようになっていたドアを開けながら声をかけると、肩に押し付けられた頭がぴくりと反応する。
 蒼葉の体を玄関の暗がりへと押しやり、ドアから手を離した。月が出ているせいで室内の方がかえって暗く、闇に足を踏み入れているかのような錯覚を覚える。閉じてゆくドアが鈍い音とともに月光を遮り、外界を遮断した。
「気持ち悪くないか?」
「ん……、へーき……」
「吐きたくなったら言えよ。このまま立ってろ。しっかりな」
 背中を壁にもたれさせ、カバンを肩から下ろそうとすると、それを見ていた蒼葉がだるそうに口を開いた。
「……れん、はいってっから……」
「わかってる」
 蒼葉は子供の頃に拾ってきたというオールメイトをいたく大切にしている。メーカーや業者任せにはせず、自らメンテナンスするほどだ。もう古い型だからと言うが、目に見える不具合がなければよく、時々必要なソフトウェアをアップデートする以外ろくに構わない紅雀からしてみれば、かなりの愛情を注いでいると思う。
 それに、蓮、とオールメイトを呼ぶ時の声と表情は、紅雀に向けてのそれとは少し違うのだ。
「……ありがと……」
 カバンを静かに床に置き、足元に屈み込むと、そんな声が降ってきた。
 答える代わりに脚をひとつ叩いて、紅雀はブーツに手をかけた。どちらも脱がせて軽く並べ、再びカバンを手にして立ち上がる。
「もう少しな。ちょっとだけ、歩こうな」
 今度は吐息だけが返る。肩を支え直し、半ば引きずるようにベッドへ導いた。
 背負っていかねばならないかと思っていたが、歩くと言ってきかなかった。相当の時間を要したとはいえ、よくもまあここまで辿り着けたものだと感心する。
「よし、座れ。ゆっくりでいいから。なんか飲むか」
 腰かけさせながら問うと、蒼葉はかすかにかぶりを振った。青い髪がふわりと月光の射した闇に舞う。
 自分で切っているという髪は、素人にしては悪くない腕だが、やはり細かい仕上がりが気になる。ああ、俺ならこう切るのに──考えかけ、蒼葉がことりと頭を垂れたのに我に返る。
「……少しでいいから飲め。上着脱いどけよ」
 ベッドサイドの窓辺にカバンを置き、紅雀が離れると、支えを失った体がそのままベッドに沈む。一応言われたことに従うつもりはあるのか、上半身がもぞもぞと動き始めた。おぼつかなさがおかしくて、つい吹き出してしまう。
「……こうじゃく」
 うまく脱げないのだろう、ジャケットの袖を腕に絡ませ、芋虫めいた様相の蒼葉がこちらを見ていた。
 いまいち焦点が合っていない、とろりとした目が乱れた前髪の間から覗いている。助けを求めてくるのかと思いきや、違った。
「どこ行く気だよぉ」
「どこって……水汲んでくるだけだって」
「うっそだぁ〜〜」
 唐突にふひゃひゃと笑い出したのだ。何がそんなにおかしいのか、手足を可能な限りばたつかせて。
 こいつ絡み癖があんのか、と身構えた紅雀を指差して、
「女のとこだろー」
「あぁ?」
 紅雀は眉を顰める。なんでそこで女が出てくるのだ。意味が分からない。
「い〜く〜なよ〜」
「だから行かねぇって」
「……なぁ、ここに泊まってく女って、なんて言ってお前誘ってんの?」
 さらに話が飛ぶ。ため息をついた紅雀は、まともに相手をすることはないと以降の台詞を聞き流すことにした。
「『帰りたくない』? 『朝まで一緒にいたい』? ……あー、もっとストレートかなぁ〜」
 指折り数えながら、蒼葉が楽しげに笑う。どちらも言われる頻度の高い誘い文句だが、教えてはやらない。
「お前、それになんて答えんの?」
 答える義務もないので黙っていると、青い眉が不満げに釣り上がった。
「むし、すんな〜〜」
「阿呆くせぇ。もういいから、ガキはさっさと寝ろ」
「ガキじゃねーもん! ちゃんと生えてっし!!」
 癇癪を起こし、蒼葉がベッドをばんばん叩いた。だからなんだ。いや、酔っぱらいなのだから理屈などないのはわかっているのだが、紅雀はつい心中で突っ込みを入れずにいられない。いかにもガキくさい返しように呆れてしまう。
 口調がだんだん舌っ足らずになっているあたり、蒼葉の意識は本当に子供の頃に戻っているのかもしれなかった。
 しょうもねえな、と思ったのもつかの間、声音を変えて零された言葉に、今度は驚愕するはめになる。
「……朝まで一緒にいてって言ったら、お前、いてくれんの」
 声が鼓膜に届いた瞬間、ぐらりと視界が揺れた気がした。
 言葉の意味を理解するのに、数十秒かかった。
 理解するといっても、単純に言葉通りの意味なのか、深い意味を持つのか、区別がつかない。
 つかないので、紅雀は混乱するしかなかった。こればかりは、酔っぱらいの戯言と受け流すには強烈すぎた。
 いや、きっと前者の意味だ。そうに違いねぇ。あの蒼葉が、俺にそんなこと言うはずがないだろう。
 当たり前だ、俺も蒼葉も──男なんだから。
 だが、話の流れ的には深い意味の方じゃねぇのか? 男同士でだって寝るこたぁできる。
 もう二十歳だ。蒼葉にだって、そのくらいの知識はあるだろうしな。
 いやいや、ちょっと待て。蒼葉だぞ? 離れている間もずっと大切に思ってきた、あの可愛かった、男の、幼馴染みの。
 それが女みたいに、『朝まで一緒にいてほしい』なんて言うか?
 ありえねぇって。な? ねぇだろ?
 そもそも、蒼葉と寝るなんてできねぇだろうが?
 想像できねぇし、したくもねぇ。
 でも、もし、万が一、蒼葉に乞われたなら────どうする。
 どうする?
「──おい、蒼葉」
「やだ」
 激しい葛藤の中、呆然と声をかけると、唇を噛んで眉間に皺を寄せた蒼葉が睨みつけてくる。
 とたんに顔がくしゃりと歪み、やだ、とまた小さな声が漏れる。何度か同じ言葉を繰り返すうちに、目からぼろっと涙がこぼれた。ぎょっとする。
「あお……」
 次々落ちる涙が頬を伝い、ぽたぽたとシーツに吸い込まれていく様が、やけにゆっくりしたものに見えた。
「やだし、おれ、こうじゃくがほかのだれかのとこにいくのなんか、ぜったい、やだ」
「──っ」
 紅雀は目を見開いた。混乱が混乱を呼ぶ。自らを抱きしめるようにして横たわった蒼葉が、肩を震わせて泣いている。脈絡のない言動を滑稽だと心の隅で感じたが、その姿に幼い蒼葉が重なり、何も言えなくなる。
「やなのに、こ、うじゃくは、おれの、ことなんか…どうでも、いいんだ」
「蒼葉……」
 ベッドに膝をつき、顔を伏せて嗚咽する蒼葉の傍に身を寄せる。
 小さな頃、二人は何度か喧嘩をした。下らないことが多かったが、こんな風に蒼葉が拗ねたような態度を取ることもしばしばあった。
 それでも、ここまではっきり何かを嫌だと主張することはなかった気がする。遠慮がちでうつむいていることが多く、肝心な時に甘えられない。そういう蒼葉が、当時の紅雀にとってはたまらなく愛おしかった。手をとって守ってやりたい、どんな望みも叶えてやりたいと──そう思っていたのだ。
「あーおーば」
「やだやだやだ、こうじゃくのばか、ば、……」
 肩に触れると、嗚咽がだんだん大きくなり、やだ、が次第にばか、に変わった。
 再会した時、蒼葉の反応は予想していたものと違った。まず驚き、紅雀が目の前にいるという事実に慣れるのにかなりの時間を要し、そうしてやっと、元気そうで良かった、おかえり、と照れくさそうに笑ったのだ。
 恨み言のひとつくらいは覚悟していたので、別れた時のことなど忘れてしまったかのようなさっぱりとした態度に拍子抜けした。こいつ、ずいぶん変わりやがったなと思ったものだが、紅雀は認識を改めた。
 きっと根っこの部分では、蒼葉は何ひとつ変わらない。その瞬間、ようやく昔の蒼葉と今夜伝え聞いた蒼葉、今の蒼葉が繋がった気がして、それまで蒼葉に対して感じていたおさまりの悪さが消えてゆくようだった。紅雀の胸の中で、あたたかい感情が咲く。
 ──可愛い。
「ばか、ばかばかば、かば……っ」
「あー、わかった、もうわかったから、な」
 カバってなんだ、と苦笑しながら腕を上げさせ、引っかかったジャケットを脱がせてやると、紅雀は蒼葉の隣に体を横たえた。男二人には少し狭いが、寝られないことはない。
「どうでもよくなんかねぇって」
「……っ」
 押し返してこようとする腕を捕え、抱きしめる。自然と頭へ手が伸びたが、すんでのことで踏みとどまった。ほんの数秒手を空でさまよわせた後、あやすように蒼葉の背中を叩いてやると鼻をすすり、少しおとなしくなった。落ち着かないのか、もぞもぞと身じろぎしている。
「ここにいる。どこにも行かねぇよ。だから、安心して寝ろ」
「……、ほんと、に……?」
「お前に嘘ついたことあったか?」
 視界の隅で青い髪が揺れ、蒼葉がおずおずと抱きついてきた。指先がそっと背中に食い込んでくる感触に思わず笑んだ。
 首筋にかかる呼吸を感じながら、ゆっくりと背中を撫で下ろす。こうしてみると、蒼葉の体は意外にすんなりと腕におさまるものだと感心する。細身といっても男のそれだ、さすがに抱き心地は女とは違うが、ここまでしっくりくるとは思わなかった。紅雀は小さく息をつき、囁いた。
「……置いていっちまって、ごめんな」
 母親とともに本土に戻る日、紅雀は蒼葉に再会を約束する言葉を一切かけなかった。島を去ってからは、連絡も絶った。蒼葉のことは気がかりだったし、別れ際の姿を思い出すたび心が痛んだが、そうしたくてもできない理由があった。音沙汰がなくなったことで置き去りにされたと思われ、責められても仕方がないと思っていた。
 蒼葉の祖母であるタエにだけは島に戻った日に事情を話したが、母親が亡くなったこと、実家とは縁を切ったこと、説明できたのは二点だけだ。胸がつかえて、詳細を口にすることはできなかった。タエもそれ以上追及してくることはなかったから、紅雀の心中を察してくれたのだろう。その後、黙って出してくれたドーナツの味は今でも忘れられない。
 あるいは、すでにある程度事情を知っていたのかもしれない。母親がタエを慕い、頼っていたように、タエも二人のことを気にかけていてくれていた。蒼葉が本土でのことに関してあまり触れないのは、タエに何か言い含められていたからなのかもしれなかった。だとしたらありがたかった。訊ねられれば、蒼葉に嘘をつかなければならなくなるから。
「ひとりで、寂しかったな」
「……こうじゃく、は?」
「──俺?」
 覗き込むと、今にも閉じてしまいそうな眠そうな目がこちらを見ていた。
「さびしかった……? だから…、」
 唇が、音にならない言葉を紡ぐ。ゆっくりと青い睫毛が伏せられたかと思うと、紅雀の背に回された指先からすうっと力が抜けていった。
「…………」
 そっと腕をほどき、寝息をたて始めた蒼葉を見つめる。頬に乾ききらない涙が筋状にうっすらと残っている。
 ……『だから』?
 何を言おうとしていたのだろう。もう確かめようのない言葉の続きを、紅雀は想像してみる。
「いや待て、ちょっと待て……そうだけど、それだけじゃないっつうか……、そこは男の性ってやつでだな」
 誰も聞いていないというのに、思わず言い訳が口をつく。
 合っているかもしれないし、まったくの見当違いなのかもしれなかった。だが、もし予想が当たっているのだとしたら──蒼葉が女がどうだの朝までなんだの言い出したのはつまり、同じようにされたいという意味などではなく、自分の女遊びを気にしているということなのだろうか。しかも相当に。
 街で顔を合わせた時のことを思い出す。たいてい女性客らに囲まれている紅雀を蒼葉が遠巻きに見ていて、紅雀が気付き、目が合うと、何か言いたげな表情を浮かべた後、ふいと立ち去ってしまう。向こうから声をかけてくることはほとんどなく、最初は呼び止めていた紅雀も、近頃では翻って遠ざかってゆく青い髪を黙って見送るようになっていた。
 たまたま誰もいないところにばったり出くわせば一人かと訊ね、肯定するとふぅん、と世間話を始めたりする。この間のように自分に連れがいる時でも──無視できる状況ではなかったとはいえ──、紅雀が一人ならば、蒼葉は普段と変わらない態度をとるのだ。気後れしているだけかとさして気にもとめなかったが、考えてみれば露骨すぎた。
 だが、嫉妬とはまた違うように思う。あの感情に特有のねっとりとした空気は蒼葉からは感じられない。さっきの蒼葉の言葉を紅雀には隠している本音と受け取るなら、自分を放ってよそへ行くのかと、ここにいろと、実にシンプルなわがままを訴えられているだけだった。
 あくまでに推測にすぎないが、もし、外での蒼葉のあの表情が、そういう感情の発露なのだとしたら。
「……うわ」
 改めて認識してみると、逆にこっちが恥ずかしくなってくる。まだ嫉妬の念や秋波を送られた方がやりやすいくらいに、こんな感情を向けられることはなくなってしまったのだと思い知る。
 自分がそうだったように、蒼葉も今の紅雀に対して違和感があるのではないかと、そこでようやく思い至った。この分だと、自分自身の感情も持て余しているのではないだろうか。そうしてみると、時々見せるぎこちないそぶりに納得がいく。
 とはいえ、日頃の行いを改めろというのは少し難しい相談だった。そう、そこは男の性なので。
 近寄ってくる相手につれなくするのも気が向かない。商売のこともあるし、女には優しくするものという主義に反する。これはいくら蒼葉のためでも譲れないことだった。
「……どうしたもんかな」
 ため息混じりに呟いて、蒼葉に目をやる。頬や胸元に落ちかかった青い髪には、決して触れてはいけない。どういうわけか感覚があり、触れられると痛みを感じるというのだ。出会ったばかりの頃、うっかり頭を撫でてしまって以来、紅雀はこの髪の感触を知らない。
 今となっては職業上、見た目でだいたいの髪質はわかるし、手触りも想像がつくけれど、もう一度触れてみたいとずっと思っていた。前髪をかきあげて額を見てみたい。一房つまんで、指にくるくると巻きつけてみたい。内側に手を差し入れて梳いてみたい。その時、蒼葉がどんな顔をするのかを知りたい。
 そして、できることなら──いつか、この髪を切ってみたい。
 長いのもいいが、短くしてもきっと似合うだろう。耳を出して首筋を見せれば、今より華奢に見えるはずだ。その姿を想像して頬が緩む。そんな平和なことを考えられる今を、幸福だとも思った。
「…………」
 思ってすぐ、自嘲の笑みが浮かぶ。
 ──そんなことを感じる資格が、自分にあるだろうか?
 ことあるごとに湧く疑問を、紅雀は静かに心の奥深くへ押し込める。もう慣れてしまった作業だった。生きていくためには、痛みに耐えるためには、考えてはいけない。少なくとも今は。目を閉じて耳を塞いで、何か楽しいこと、気持ちのいいことで蓋をしなければ。煙草を吸いたい、と思った。
 知らず知らず蒼葉の腰に回していた腕に力がこもってしまい、んん、と小さく唸って、蒼葉が目を覚ました。ぎくりと身を竦ませる自分を、こうじゃく、と抑揚のない声が呼ぶ。
「……寝ねぇの?」
 首をかしげ、寝ぼけたような目が紅雀を見ている。答えられないでいると、蒼葉がふわりと笑った。着物の袖をくいと引っ張られる。
「ねよう?」
 遊びにでも誘うような口調で喉元に鼻先を擦り寄せ、袖は握ったまま、また静かになった。
 その様子を見守っていた紅雀も、深く息を吐くと瞼を下ろした。
 そうだ、もう寝てしまおう。眠ってしまえば何も考えずにすむ。後のことは何もかも、明日の自分に任せればいい。
 触れたところから伝わる体温が心地いい。こうして誰かと体を重ねることもなく眠るのは、ずいぶん久しぶりだった。おまけに腕の中にいるのが蒼葉ときている。
 子供の頃にはこんな風にひとつの寝床で眠ったこともあったが、今となっては酔っぱらいでもしなければできはしないだろう。蒼葉とならば並んで寝るくらい抵抗はないものの、さすがに積極的にそうしたいと思うわけではない。向こうだっては? なんで? と鬱陶しそうな顔をするだろうし、どうせ誰かと眠るなら、ついでに楽しくじゃれ合いたいことだし。
 それでも時々──ほんの時々、ただ互いの鼓動を感じ、温もりを分け合うためだけに他人と眠りたくなることがあった。紅雀に何も求めず、黙ってすべてを受け止めてくれる相手がいればと、都合のいい夢を見る。そんな人間がどこにいるだろう。いたとして、自分の抱えている重い荷物の存在を知って、それでもいいなんて酔狂すぎて笑ってしまう。
 紅雀さんのためなら何でもしたい。そう言われることはある。女は、隠し事に敏感だ。紅雀の中の暗い塊に気付き、正体を探り当てようとしてくる。けれど、自分でもごまかすのに精一杯のものをそう簡単にさらけ出せるわけもない。
 そして、探ってくるのはたいてい己の疑念を晴らしたいという動機からであって、紅雀のためではなかった。何度かそんな経験をした後、その手の台詞を口にする相手には深入りしないようになった。気持ちは嬉しいが、真に受けて寄りかかると後が面倒だった。
 碧島での生活は、紅雀を安心させる。ちやほやされるのも、髪結いの仕事も、日々降りかかるトラブルすらも、今のところはすべてが楽しかった。食べ物も口に合うし、気のいい人間が多い。プラチナ・ジェイルができたことで様変わりしたものの懐かしい場所も多く、何より蒼葉とタエがいる。
 一番幸福だった時間を過ごしたこの島に、自分は大分癒されていると思う。このままいつまで罪を抱え、いもしない誰かを待ってふわふわ漂い続けるのだろうかとやりきれない思いにとらわれることがあっても、蒼葉の家に行けば、そこにあるあたたかさに立ち直るための力を分けてもらえた。
 その代わり、自分は必ず彼らの穏やかな生活を守ろう。
 ここにずっといられたらいい。ずいぶん迷ったが、帰ってきて良かった。赦される日が来なくても、求める誰かに出逢うことができなくとも、この島でなら、紅雀はどうにか折れずに生きていける気がした。
 そう思ったところで、脛のあたりにどすんと何かが乗せられた。
「…………」
 目を開けなくてもわかる。蒼葉の脚だ。昔から寝相が悪く、何度か布団ごと蹴られたり巻き付かれたりしたことがある。まさかこの悪癖が強面を地面に沈める足技に進化するとは思いもよらなかったが。
 蒼葉は何語だかわからない声を漏らしながら脚をずり上げ、紅雀の腿に絡めてきた。袖を掴んでいた手が背に回り、ぐいと抱き寄せられて、上半身もより密着してくる。あまり嬉しくない格好になってしまったが、振りほどくのはためらわれた。
 目を覚ました時、蒼葉は自分の置かれた状況にどんな反応をするだろう。焦るか真っ青になるか、怒るか。もしくは固まるか。なんて声をかけてやろうか。
 想像し始めると、紅雀は次第に楽しくなってきた。笑い出しそうになるのをこらえる。いっそ脱がしておけばよかったかと思ったが、さすがに度が過ぎるかと考え直す。まあ、自分が隣に寝ているというだけでも十分衝撃的か。
 顛末を話したらミズキは苦笑して、だから蒼葉いじるのやめろって、とたしなめてくるに違いない。
 朝が待ち遠しい。けれど、ゆっくりと落下していく意識の中、寝入ってしまうのは勿体ないとも思った。
 こんな夜は、きっともう訪れない。



 瞼の向こうが明るい。
 そう感じた瞬間、急速に意識が浮上した。眠りにつく前と何かが違う、と考えて、右腕が軽いのだと気付いた。目を開けるのと同時に、さまよわせた右手が何かあたたかいものにぶつかる。
「っ!」
 びくりと逃れようとしたそれを反射的に掴んだ。弾力と、その下の何か堅い感触。
 ……あぁ、腕か、と認識して、声の方向へ視線を移した。目を見開いた蒼葉がそこにいた。
「……なに。びっくりした」
「あー……すまねぇ、つい」
 手を離し、ぐしゃりと髪をかきあげていると、うつ伏せの姿勢をとっていた蒼葉が身を寄せてきた。体の向きを変えたせいで掛け布団が背中から滑り落ち、腰あたりまでの曲線が露になる。
「どした?」
「いや、なんでもねえよ」
 窓の外へ視線をやりながら答える。大きな月が出ていた。明るいわけだ。ふと、前にもこんな月を見たことがあったなと思い出す。
「ならいいけど」
 ほっと息を吐くのに合わせて動く鎖骨を、紅雀はぼんやり眺めた。首筋から胸にかけて数カ所、肌とは違う色のついた場所がある。もう一度手を伸ばし、そこに触れると、蒼葉が身を震わせた。
「ちょ、っ」
 とっさに腕を両手で掴まれたが、構わずに鎖骨の窪みへ指を這わせる。そこに指先を食い込ませると、紅雀は身を起こす。勢いのまま蒼葉を組み敷いた。
「こう……っ、──ッつ!」
 両手を捕え、額を強く蒼葉のそれに押し付けると、前髪に刺激があったのか、蒼葉の動きが止まる。顎を引いたのを追いかけて、そのまま噛み付くように口づけた。
「……ぅ、んん、」
 頭を振って逃れようとするのを、深いキスで制する。歯列を割り、強引に絡ませた舌を優しく吸ってやると、ふっと力が抜けたのがわかった。口腔を丁寧に撫で、再び舌に触れると、蒼葉も応えてくる。ひとしきり舌を絡め合ったところで、紅雀は蒼葉を解放した。離れ際、軽く音をたてながらもう一度口づけ、顔を覗き込む。
「……だから、なんなんだよ……。痛ぇし」
 荒い息を吐きながら、潤んだ瞳が睨んでくる。濡れた唇に見とれていると、見んなバカ、と蒼葉が忌々しげに唇を拭った。
「こーうーじゃーく〜?」
「〜〜って!」
 仕返しとばかりに両方の頬をつねられる。そこでやっと、紅雀は冷静さを取り戻した。慌てて蒼葉の上から身を引き、向かい合う形で横たわる。
「すまん、悪かったって。なんかこう、ムラッとしてよ……」
「どんだけ盛ってんだよ、スケベカバ」
 軽く脛を蹴られた。バリエーション増えやがった、と紅雀はしばし遠い目になる。呆れ顔の蒼葉は、それでもじっと自分を見ている。暴れたせいで、短くした髪が乱れてしまっていた。
「しょうがねぇだろ。今日はそういう気分なんだよ」
「開き直んな」
 また蹴られる。
「……もういいし。すっげー腹いっぱい」
 掛け布団を引き上げ、目をそらしながら蒼葉が呟く。不機嫌そうな声が照れを含んでいるのを、紅雀はもう知っている。
 付き合い始めて、そろそろ半年が経つ。
 それだけ経ってもまさか蒼葉となぁ…、と感慨深くなる瞬間がある。今もそんな気分で乱れた髪に触れた。蒼葉は一瞬訝しむ目をしたが、おとなしく紅雀の指を受け入れる。
 ドライジュースの失踪から始まった一連の事件で紅雀の過去をすべて知ってしまったにも関わらず、蒼葉は奇特にも自分のことを好きだと、傍にいてくれるのだという。ずっと好きだったと告げたのは自分からだったが、俺も、という返事は想定していなかった。
 あの時のことは、思い出すだに思春期のガキかよと頭を抱えたくなる。気持ちを伝えるのにいっぱいいっぱいでそういう関係になるところまでは期待どころか考える余裕すらなかった紅雀は、正直狼狽した。勢いで思いを遂げたものの、よりによって興奮のあまり鼻血を噴くという大失態を犯してしまったのだ。最近ようやく口にされなくなったが、さんざんからかわれた傷は当分癒えそうにない。
「まだやんの?」
 整えた後も髪をいじり回している紅雀に、蒼葉がとうとう痺れを切らした。
「嫌か?」
「落ち着かねーから」
「こうすっと、きれいだなって思ってな」
 紅雀はそっと梳き上げた髪をはらはらと落とす。
「は?」
「月でさ」
 蒼葉の青い髪が照らされ、いつもとは違う印象を受ける。もう少し色気のある表情をしてくれれば絵になるのだが。
「……ああ……、起きたらでかいの出てたから、驚いた」
 太ってってんのにも気付かなかったな、と窓の外へ目をやった蒼葉が言う。
 普段どうやって儲けを出しているのか不思議に思えるほどのんびりとしたジャンクショップで働いている彼だが、プラチナ・ジェイル崩壊以降、忙しくしている日が増えた。今まではほぼ碧島の中だけで完結していた販路が、本土や国外にまで広がったためらしい。
 羽賀さん目が利くから前からうちの品揃えってマニア受けしてたんだけど、ここんとこめちゃくちゃ問い合わせ増えてて追っつかないんだよなー、もう英語とか色々言葉ありすぎてわけわかんねーしここ日本だっつの、あー何言ってるか自分でも意味わかんねぇ頭パンクしそうどうにかしねーと、だそうだ。おかげで週3ペースだった泊まりが減り、泊まったとしてもろくに会話もなく寝てしまったりと、紅雀にとっては迷惑な話だった。
 最初こそ労る気持ちが強かったものの、恋人とくつろぐ時間すら奪われる日が長く続けばさすがに不満も溜まってくる。そしてそういう時に限って休みが合わなくなる、思わぬ邪魔が入る──モヤシとヤクザ絶対許さねぇ──といった嫌なパターンに陥るもので、ようやく今日、二人きりで過ごすことができたというわけだった。
 顔を合わせるまではのんびりと休日を楽しむつもりだった。それがどういうわけか、玄関でふわっと笑った蒼葉を見た途端、完全にプランが崩れた。これまで蒼葉への触れ方には慎重を心がけていたというのに、この日ばかりは箍が外れた。夜を待つこともできないどころかいつもよりじっくり時間をかけて体を開き、辛抱強く応えてくれていた蒼葉にもう許してほしいと泣かれるまで挑んでしまったのだ。我ながらどうかしている。
 誰かと抱き合うことは好きでもそこまで濃い行為を好む方ではないと思っていたこともあり、知らない自分を引きずり出されたことに自分が一番驚いていた。泣き顔にまたそそられたと言ったら、きっと本気の蹴りが飛んでくるだろう。あーはいはいスケベカバだよもう。
「……疲れてんのに、無理させたな」
 両手で頬を包み、親指で目の下をそっとなぞると、くすぐったそうに顔を傾ける。
「や〜だ〜ぁ、紅雀さん優しぃ♥」
「やめろって、それ。似てるから」
 蒼葉が笑う。こんな風に笑い飛ばしてくれるのを、ありがたいと思う。
 ここ半年で、蒼葉はたまに紅雀の客と話をするようになった。正確には、紅雀が蒼葉の髪を切ってからだ。
 長かった頃は伸ばした毛先をジャケットの襟で隠していたのもあり、重さが目立ったが、短くしたことで顔や首周りがすっきりし、やわらかい印象に変わった。蒼葉を見知っている者の大半が見違えたと言うのにしてやったりと思ったものだ。蒼葉自身は戸惑っていたようだが、恋人が評価されるのは誇らしかった。
 相変わらず誰かが紅雀の周りにいる時は近づいては来ないが、目が合えば微笑むし──この瞬間がたまらなく好きだ──、声をかけられれば応じるようになっていた。何人か顔見知りができたようで、今のはそのうちの一人の真似だった。
 最近本土から来たとかで、声の抑揚が島の人間とは少し違っているうえに女の子にしては少し低い。特徴があるので覚えやすいのだろうが、それほど親しくなったのかと気にならないでもない。
「この間、南地区であの子見かけたんだけどさ。喋り方が普通だったんだよな」
 頬に当てられたままの紅雀の手に指を滑らせながら、蒼葉が言う。
「?」
「お前の近くにいる時と違ってテンション低いっつか。あー、お前のこと好きなんだなぁ……って」
「…………」
 目を伏せて、もの言いたげに手の甲の骨をなぞってくる。一度手首まで滑り降りた後、また戻って軽く爪で引っ掻く動作を繰り返した。傷痕の皮膚が薄くなった部分にも当たり、紅雀は眉を寄せる。や、そんだけなんだけど、と聞こえたところまでは耐えたが、それ以上は限界だった。
「え、……っ」
 蒼葉の肩を押し、背中をベッドに押し付けながら覆い被さる。腕からたどって指と指を絡ませ、目を合わせた。
「あーおーばー……」
「紅雀……?」
 何をされているのかわからない、そんな顔をしている。困ったような目で見返してくるのに、紅雀は深いため息をついた。頭がぐらぐらする。どうしてくれよう。どうしたいんだこいつ。どういう意味だ今の触り方。思いっきりスイッチ入れやがって──可愛いっつの。
「それってなんだ、嫉妬か、拗ねてんのか。両方か」
「は!? 違うって! じゃなくて、」
 否定した後、蒼葉がしまった、と言いたげに顔を背ける。覗き込むと、落ち着かない様子で視線をさまよわせた。
「言えって」
「……なんでもない」
「あるだろ」
「ないって。離せよ」
「言ったらな」
 組まされた指を振り払おうともがくのを、強すぎない程度に力をこめ体重をかけてやる。何を隠しているのやら。
「〜〜〜〜」
「蒼葉」
 ふと悪戯心に火がつく。耳元で囁き、そこへ唇を落とした。わざと音をたてると面白いくらいに反応する。
「やだって、も……」
「なんもしねぇよ。多分な」
「多分って」
「…お前次第だって言ってんだよ」
 もう少しいじめてみたくなり、骨に沿って顎先まで何度か口づけた後、甘噛みしてやる。
「……ムカつく、っ、……ぁ、くそ……」
 そういえば、最初は同じことをしてもげらげら笑われるだけだったな、としみじみする。こんな風に少し触れただけでとろけるほど自分に慣れてくれたことが、嬉しい。
「……言うから! 言うからもう、……」
 シーツに頬をこすりつけ、蒼葉が語尾を震わせた。その気にならない程度にとどめておくつもりだったとはいえ、紅雀は少し残念な気分で手から力を抜く。合わせた手のひらの間に空気が触れ、閉じ込められていた熱を散らした。
 ぎりっとひと睨みして紅雀を振り払うと、蒼葉は腕で目元を隠して大きく息を吐き出した。拳でも飛んでくるかと思ったが、どうやらさっさと吐いてしまうつもりらしい。
「……なんか、わかるなって。あんな風になるの」
 呼吸を整えながら、蒼葉がいかにも不承不承という風情でぽつりとこぼした。うっすら汗をにじませて上下する胸がなまめかしく映る。
「俺も、お前といるとどっかガーッてアガることあるし……って」
 うん? と紅雀は首をかしげた。どんな流れだったか、と記憶を遡る。そう、取り巻きの一人が紅雀の前ではテンションが違うというような話だったはずだ。
 腕を外し、蒼葉がこちらをちらりと見る。また目をそらして、口元に手を当てながら続けた。
「今日とか途中からわけわかんなかったけど、お前ががっついてくれんのもそういうことなのかなって…、めちゃくちゃ嬉しいっつか、あぁ可愛いな、好きだなーって……、……」
 抱いている間にもいいだの好きだの言われたが、これが一番きた。
「……あー……、おう、そりゃあ、どうも…」
 ろくな言葉が浮かばなかった。蒼葉の顔をまともに見られない。自分がいつも言っていることを相手からも返されるとは思いもよらず、急速に体温が上がってくる。きっと今の自分は、この上なくだらしない顔になっている。
 無意識に引きずっていた初恋を最初からやり直すように始まったこの恋は、互いに体の隅々まで知り尽くしてしまったというのに、今でも時々ひどく初々しいものになる。
「……キモくね?」
「こんなこと言われて喜ばねぇ奴がいたら、張っ倒してやりてえよ」
「……あっそ」
 また乱れてしまった前髪を梳いてやると、蒼葉が目を閉じた。睫毛の動きにつられるように身を屈め、そっと口づけた。軽く触れて離れる。首に腕が回され、引き寄せられて、もう一度。
 キスを何度か繰り返して、紅雀は蒼葉に乗りかかるようにして抱きしめた。肩口に顔を埋めると、重い、と文句を言われる。それでも、蒼葉の腕は紅雀から離れなかった。
 目を閉じて、充足感に浸る。こんな時間を過ごせるなら、たまにはすれ違いの生活も悪くはないかもしれないと思う。付き合わされる蒼葉はたまったものではないだろうが、がっつかれるのも嬉しいだの言われてしまったら調子にも乗りたくなる。邪魔をしてくれた連中の顔を思い浮かべ、紅雀は鼻で笑った。ざまぁ。蒼葉はこんな俺が可愛いんだとよ。
 思うように会えない間、何より怖かったのは、別に女と遊んで来ても構わない、と蒼葉が言い出すかもしれないということだった。付き合い始めた頃、もう女と遊ばなくてもいいのかという一言から喧嘩になったことがあった。すぐに元の鞘に収まったし、思うところがあっての発言だったとはいえ、二度と聞きたくない。
 さすがに学習したらしく愚かなことは口にしなかったが、蒼葉は未だに女は女だしまぁそういうこともあるかな、くらいに考えているふしがある。卑屈になっているわけでも紅雀を試しているわけでもないようなのがまた恐ろしい。油断できない。
 時々不思議そうなそぶりを見せることはあっても紅雀の気持ちを疑うようなことはせず、素直に受け取る。自分からも差し出すが、押し付けるような真似はしない。付き合いやすい、楽な相手だといえばそうだが、蒼葉はあまりに紅雀に都合が良すぎる。自分を見て欲しい、あなたが欲しいと求めてくる人間ばかり相手にしてきただけに、態度が腑に落ちない。
 自分に何も求めず、黙ってすべてを受け入れてくれる──蒼葉は、紅雀の望みに近い存在のはずだった。なのに、それを物足りないと思ってしまう。もっと自分勝手なことを言って甘えて、自分を欲しがればいいのに。他の誰かのところへ行かないでほしいと泣いたあの夜のように。
 あれから、紅雀は女遊びをやめないかわりにこれまで以上に蒼葉に構うことにした。街では嫌そうな顔をされても必ず声をかけたし、しつこくない程度に連絡を取り、図々しいほどに飯をたかりに行った。蒼葉もタエも、そんな紅雀を呆れながらも迎え入れてくれた。今となってはこれまでどうして蒼葉を意識する瞬間がなかったのか不思議でならないが、からかいついでに軽く触れたり、二人の時にはわざと距離を縮めてみたりもしたものだった。
 蒼葉の傍は居心地が良く、蒼葉のわがままを叶えてやっているようでいて、甘えて安らいでいるのは紅雀の方だった。島に戻ってからずっとそんな調子だった。今、この時も。蒼葉を守るのも甘やかすのも自分の役目のはずなのに、いつの間にか立場が逆になっていると感じるようになったのは、いつだったか。
 惚れた相手の前では格好良くありたいというのは男ならごく当たり前の感情だ。なのに、いざ向き合えば、『いつも余裕で自信たっぷりのかっこいい紅雀さん』を見失いそうになることがある。蒼葉との恋がこんなに自分を情けないものにするとは思わなかった。自分はいつでも格好良く、強くなくては。何にも負けず、動じず、怖じけず──昔と変わらず、蒼葉の手を引かなければならないのに。
 蒼葉の目に、今の自分はどう映っているだろうか。
「……紅雀?」
 ぽつんと、蒼葉の声が紅雀の中に落ちてくる。寝た? と、穏やかな響きが染み渡った。こういう時の蒼葉の声は、とても落ち着く。もう少し聞いていたいと思っていると、まだ続きがあった。
「……んーと、最近ほんとごめんな。俺、全然お前に優しくできてない」
 ゆっくりと蒼葉が話し始めたのに、紅雀は息を詰める。
「お前はすっげー気ィ遣ってくれてんのにさ……。お前だって働いてて、毎日疲れんのに、甘えてるよな」
 紅雀を抱きしめていた腕が動き、そっと頭を撫でられた。何度か後頭部を往復すると、毛先まで梳られる。くすぐったかったが、なんとか耐えた。
 ややあって吹き出すような声が響き、何が面白いのかと訝しんでいると、後ろ髪をまとめて持ち上げられた。毛束に指を突っ込まれたところで、何をされるか予想がついた。何遊んでんだかこいつはと思ったが、もう少し黙っておくことにする。
「俺は少し顔見れるだけでも良かったんだけど、婆ちゃんが寝に行くだけなら帰って来いって言うから来れなかったりしたし。なんかそれ、どういう意味だよって思わねぇ?」
 どういう意味だそれ、と紅雀は背筋が寒くなる。
 隠し通すつもりは毛頭なかったが、どう打ち明けたものかと意見がまとまらないうちにタエには二人の関係がばれてしまった。三ヶ月を過ぎた頃だったろうか。いつものように蒼葉の家を訪ね、その日の夕飯だった餃子を包んでいる時に、タエが紅雀に「下に布団敷いとくから、今日からそこで寝な」と言ったのだった。泊まる時には二階の空き部屋を借りて寝ていた紅雀は、意味を理解した瞬間持っていた餃子を取り落としていた。
 二度と瀬良垣家の敷居をまたげなくなるかもしれないと思ったが、二人で平謝りし、説得を重ねた末、どうにか黙認というところまでこぎつけた。以来、紅雀はタエに頭が上がらない。大切な孫が週の半分近く男のところへ入り浸るのもいい気はしないだろうが、かろうじてお目こぼししてもらっているという状況だった。
 タエの態度も出される食事の内容も今までと変わらない──セロリ入りのおかずが食卓に上る頻度が増えたのはきっと気のせいだ──とはいえ、未だに緊張が解けない。自分がタエにとってどこの馬の骨とも知れない人間でなくて良かったと心底思う。でなければ逃げ出したくなっていただろう。
 心配で帰ったら、余計なお世話だって言うくせにさぁ…とぼやいてから、蒼葉はこうかな? と予想通り紅雀の髪を編み始めた。おいこら。
「でも会いたいからとか、恥ずかしくて婆ちゃんには言えねーし……えっと、もし寂しい思いさせてたんなら、ごめん。──う〜ん? 太いな」
 不満だったらしく、いったんほどいて毛束を二つに分け、もう一度編み始めた。それ編み目裏返しになってる、と突っ込みたくて仕方がない。
「……あのさ……、ここんとこあんま相手できなかったから、少しだけ、ほんと少しだけなんだけど、お前がよそ見すんじゃないかな、とか思ったりもしたんだけどさ……」
 髪を編む速度が落ちる。紅雀はうっすらと目を開けた。
「やっぱそんなん嫌だし。俺がいんだから、ちゃんと我慢しろよな」
 軽く髪を引っ張られた。嬉しい言葉のはずなのに、どれだけ下半身のゆるい男だと思われているのだろうかと切なくなる。だいたい、痛々しいほどに自分の中のあれこれが蒼葉に向かっているのを知っているくせに、一体どうしたらよそ見ができるのか教えてほしい。
 片方を編み終えて紅雀の背に垂らすと、残りも編んでいく。遊び終えて満足したのか、蒼葉の腕がもう一度紅雀を抱き寄せた。紅雀、とそっと名前を呼ばれた。
「俺、お前のこと大事にしたいし、もっと満足して欲しいし……努力するから、ちょっと待っててな」
 刺青の彫られた背中を優しく撫でられる。ゆっくりと、何度も。手のひらのあたたかさが染みた。
 馬鹿な奴だと思った。
 自分のような面倒な男を選んでくれただけで十分なのに、どうしてこんなに──本当に馬鹿だ。
 馬鹿で、可愛くて──たまらなく愛しい。
 愛しくて、泣きたくなる。
「──ばぁか。全部俺が好きでやってんだからいいんだよ。いくらでも甘えてろ」
 耳元で囁いてやると、細い首筋が激しく反応する。
 声をあげるなり何かしらの動きを見せるものと思いきや、蒼葉はそのまま固まってしまったようだった。今頃なんで? なんで!? とぐるぐるしていることだろう。起きていないかしっかり確かめもせずに喋り出す方が悪い。迂闊すぎて笑えてくる。
「蒼葉」
 身を起こし、紅雀はとびきり甘い声で恋人の名前を呼んでみる。
「俺な。今、すっげえ幸せだわ」
「……っ」
 満面の笑みを浮かべて言ってやると、見下ろした細い体がざっと朱に染まった。
 驚愕と羞恥とでわななき始めた蒼葉の手をとって指に軽く口づけた後、紅雀は突っ伏して肩を震わせた。笑いを噛み殺す。ボーナスステージありがとさん。いや〜俺、当分無敵だわ。
 3年前、明け方に目を覚ました蒼葉は結局紅雀の期待していた反応を見せることはなかった。ひどい二日酔いでほぼ1日を寝て過ごすはめになり、それどころではなくなったからだ。状況は違えど、もしやこんなところであの時見てみたいと思っていた光景が展開されるとは、幸運は続くものだと思う。
「あー、幸せ」
 まだ自分はその言葉を使うのにふさわしい人間ではないけれど、蒼葉に伝えるくらいはいいだろう。
 癒えない傷を抱えてさすらい、たくさんの人間と過ごしてきた夜を超えて、蒼葉に辿り着けて良かった。ようやく見つけた宝物をもう絶対に手離したくない。寂しい思いも辛い思いもさせたくない。そのための努力を、自分も全力でしようと思った。さしあたっては将来設計のための貯金などから。
 そして──今夜の告白に免じて、あの夜の蒼葉のことは、一生秘密にしておく。
 そう決めて、紅雀はわずかにこぼれた涙をシーツに吸わせた。