夢じゃない

 その映画のタイトルはすぐにわかった。ヒット作だったし公開時期も覚えていたから、いくつかのキーワードと組み合わせてベニに調べさせればあっけないものだった。検索作業をしただけだというのに、ベニはさも自分の手柄であるかのように得意げだった。
 タイトルを告げても全然わからないと言うので、せっかくだからと蒼葉とふたりで観ることにした。コイルのテレビ機能とコンテンツレンタルによって簡易ホームシアターが出来上がるおかげで、蒼葉と余暇を過ごすようになってからというものこうして映画を観る機会が増えた。選ぶのはたいてい今観ようとしているアクションやコメディ、ホラー映画だった。
 この日は夜、あとは寝るだけという状況でベッドに腰を落ち着けた。紅雀は立てかけた枕にもたれかかって片膝を立て、隣にいる蒼葉はクッションに見立てた枕をあぐらをかいた脚の上に置き、さらに蓮とベニとを乗せた格好だった。美容室に連れて行ったときに得た知恵らしい。ゴロゴロできるし退屈になればそのまま寝てしまえるからとこうなっているが、そろそろソファでも買うべきかもしれない。
 そんなことを考えていると、近くに置いたトレイからペットボトルを取った蒼葉が蓋に手をかけながら紅雀を見、不可解そうな顔で口を開いた。
「ミズキに訊いてみたら、観たことあるって言ってたんだけどさ。ちゃんとアクションものなんだよな?」
「? あぁ。とにかく逃げ回るか戦うかって感じで、静かなシーンの方が少なかった覚えがあるな」
 それがどうかしたかと問うと、ミズキのコメントがアクション映画に対するものじゃなかったという。
「まあそこはそこで凝ってたしすごかったけどって、アクションがおまけみたいな感じで……。観たらわかるってそれ以上は教えてくれなかった」
「へえ。ま、とにかく観るか」
 ミズキはいったい何を言ったのやら。そうして部屋の明かりを落とし、再生を始めようとしたとき、紅雀はやや緊張した。ある日突然命を狙われることとなった主人公が時を超えてやって来た未来の恋人であるヒロインとともに逃げ回りながら成長を遂げ、最終的に自分を殺そうとする勢力の頭目を自らの力で倒し元の日常を取り戻すという大まかなストーリー、主人公とヒロインが紆余曲折を経て結ばれることは覚えているが、紅雀の中にはヒロインのひたむきさに主人公と一緒に惹かれていったことへの印象ばかりが残っている。
 幼い頃に観たものだけに見落としや勘違いもあるだろうし、何より初見からだいぶ年月が経ってしまった今、観てみたらそれほど面白くなかったと感じてしまうかもしれないことが少し不安だった。自分の目が曇り、感性が錆び付いて、美しいはずのものが色褪せて見えてしまうのは寂しくて恐ろしいものだ。自分が内外から歪められ、変わってしまったことを自覚しているからよけいに。それに、蒼葉につまらないと思われないかも気にかかった。
 そうした危惧はすぐに杞憂に終わった。作中で描写されている風俗や服装などからにじむ古さこそ否めないが、やはり好評を得ただけあって細かに作り込まれており、軽妙で退屈な時間がほとんどなかった。ちらりと隣を伺えば、蒼葉は画面を食い入るように見つめていた。唇を薄く開き、時折ベニと一緒に小さく声を上げたり拳を握ってみたり、胸を押さえて息をついたりしている。画面からの光に照らされた興奮気味の横顔に安堵した紅雀は画面に向き直り、スクリーンに映し出される物語を懐かしむことにした。
 ただ、昔とまったく同じように受け取ることができない部分はやはりあって、肝心のヒロインへの印象が少し変わった。確かに今見てもいい女で、女優の演技も役とは思えないほど自然だ。ただ、いい女すぎるきらいがあった。理想と言えば聞こえがいいが、今の紅雀の目にはどこか男にとって都合のいい女に映った。かつてはひたすらに一途だと、いいな、こんな相手がいてくれたならと憧れたところに作り手の作為が透けて見えるようで、眉をひそめてしまったのだった。
 この点に関しては見たままの印象を素直に受け取れなくなったなと苦い思いに駆られたが、ヒロインに対して主人公の描かれ方がいまひとつだったのも一因かもしれない。平凡な青年として登場した彼は己の運命と向き合う決意をしヒロインへの猜疑心を捨て始めてからは主人公らしく成長を見せるものの、それまでの自分を気遣う彼女への態度が紅雀には冷たく横暴なものに感じられ、そこを経ての感情の変化が見所のひとつだといっても、悲しげな顔をするヒロインの姿を見るのは心が痛んだ。
 ──彼と喧嘩しちゃって。忙しくて気が立ってたみたいで、お酒も入ってたし……。きっと私が刺激しちゃったんです。いつもはすごく優しいんですよ。今日も約束してるから、なるべく綺麗な格好で会いたいんです。
 そこで、目の周りに痣を作った客の女が健気に笑ってみせた場面が浮かんだ。数日前のことだ。ファンデーションを重ねても隠しきれないそれは青と紫が混じった奇妙な模様を描いていてひどく痛々しく、腫れぼったい瞼はきっと殴られたせいだけではなかったろう。
 二度と殴る気になんてならないくらい可愛くしてやる、もし今度やられたら俺が殴ってやるから言いに来いと冗談交じりに告げると女は明るい笑い声を立ててうなずいていたが、もしまた同じ目に遭ったとしてこの女は何も言ってくることなく紅雀のもとを訪れるのだろうと思った。以前ならこういう女を見ると無性に慰めてやりたくなったものだ。女が泣くのは嫌いだった。女をいいように扱い、泣かせるような男のことも。
 ……都合のいい女。か弱く、手酷い加虐を受けてさえ相手に恨みを抱くのではなく自分に非があるのだと考えてしまう母のような女は父親にとってまさにそういう存在だったろう。跡継ぎを産める腹を持った従順で美しい女だとでも思っていたのだろうか。もっともあの男は母の容姿にすら関心があるようには見えなかったが。
 ただ、ひとつ疑問に思うことがある。嫉妬深い本妻の存在があったとて妾くらいその気になればいくらでも持てたはずなのに、あの男に連なる血を持つ人間はこの世に自分ひとりしかいないというのだ。それがなぜなのか、今でもわからない。
 ──なんでだろうねぇ。お前の父親は教えちゃくれないし、俺にはわからないんだよ。なんでだと思う? そこに意味はあったのかな。この女を選べばお前が出来るって天啓でも受けてたのか、それとも男さえ生まれりゃ誰だってよかったのか? ただ面倒くさかっただけなのか。お前はどう思う? ……まぁどちらにせよ、俺はあの男に心底感謝してるんだよ。お前っていう最高の素材に巡り会わせてくれたんだからね。なぁ紅雀。
 粘ついた声とともにこめかみを穿つ針の感触を思い出しそうになり、紅雀は眉を寄せた。間のいいことに画面の中で爆発が起こり、鼓膜がびりっとするほどの轟音が声を吹き飛ばしてくれた。
 昔は誰かにそのことを聞かされるごとに見境なく種を蒔き散らしてくれればよかったものをと忌々しさを覚えるばかりだったが、もしかしたら母が選ばれたのには子を産めること以外にわずかなりとも意味があったのだろうか。母にとって、救いのある意味が。
 あの家と今後一切関わるつもりのない以上それを知るすべは今の紅雀にはなく、想像することしかできない。ただ、あればいい、あってほしい。紅雀を愛し、慈しんでくれたあのまなざしが、ただ自分の血を分けた子どもだからというだけでなければいい──近頃、ほんの少しだけそんなことを考えるようになった。
「……なに?」
「いや」
 紅雀は画面から目を離すことなく体を傾け、蒼葉の肩に自分のそれをゆっくりとぶつけた。倒れない程度に体重をかけて寄りかかる。じりじりと傾いた蒼葉は紅雀の返事に何も言わず、やがて肩をぐぐっと押し戻してくる。その力強さに感心しつつ、ほっとした。
「……歳取ったかな」
「?」
「それとも蒼葉がいてくれてるからかな……」
「は?」
 ぴたりと押し返してくる力がやみ、こちらを伺う気配がした。
「好きだよ」
 誰にともなく呟くと、ぐらりと体が傾いだ。
『おいお前ら、なーにやってんだよ〜。今すげぇいいとこだぞ、よそ見してたら見逃しちまうぞ!』
 ベニが興奮した声をまき散らす中、体を元の位置まで戻された紅雀は離れていこうとする蒼葉の手に自分のそれを重ねる。ぴくりと反応されたものの蒼葉は何も言わず、肩だけを離して再び映画に熱中し出したようだった。紅雀も画面へと目をやり、そのまま特に何をするでもなく蒼葉の手と熱を分け合った。
 その手が再び反応したのは、物語が終盤にさしかかったときだった。追いつめられたふたりがやっとのことで逃げ込んだ廃工場で求め合うシーンが始まったのだ。正確にはキスシーンだったが、観ている側からすればこのまま何も起こらないわけはないだろうというお約束の流れだ。とはいえひとつ前のシーンで主人公がヒロインへの想いを自覚したばかりで、抑えきれなくなった感情が迸った末の情熱的な場面だった。
 手のひらがわずかな動きをとらえた瞬間、紅雀は蒼葉を見た。濃密な空気の気配を感じ取るや空いている方の手を伸ばし、蓮とベニをまとめて眠らせたようだった。舌を巻く素早さだった。
「子どもは寝る時間?」
「気まずいだろ。なんか」
 小さく笑うと、蒼葉はばつの悪そうな顔をしてそう呟いた。こいつらがセックスに関する知識を持たないわけでも自分たちの関係を知らないわけでもないのに。そう思いはしたものの、特に見せたい理由もないので黙っておいた。そうしてわざとらしく蒼葉の手を繰り返し握ってやる。
「俺と観んのは気まずくないって?」
「訊くなよバカ。でもお前にとって思い入れのある映画だっていうなら飛ばすのもなんだし、面白いから最後まで観ときたいし……」
「ふうん」
 ふてくされた蒼葉がそう話す間にも画面の中では濡れ場が展開されていく。映画と蒼葉の顔とどちらを見るべきかしばし悩み、紅雀は前者を選んだ。
 古びて穴の空いた天井から射し込むわずかな光の中でヒロインが傷を負った男を気遣って服を脱がせ、愛撫を施しながら自らも裸体を晒していく過程が記憶に残っている以上になまめかしく、しかもふたりを囲む機械の隙間から覗き見しているかのようなカットをまじえてその場面を見せられるので、年頃の同級生らの目がそちらにばかりいくわけだと得心した。
 ヒロインの体つきがまた絶妙で、画面の中で豊かな胸が惜しげもなく揺れるさまを目の当たりにしたときにはよく気にせずにいられたなと当時の自分に問いかけたくなった。それとも今の自分がよほど欲にまみれてしまっただけなのだろうか。もっとも近頃、こういうやわらかな肢体からはすっかり興味が失われつつあるが。
「お前、このくらいの大きさ好きだろー?」
「そっちこそ。つかここ、字幕の入れ方すげぇな」
「モザイクがわりかってな……。これ、中学生くらいのガキは映画館じゃ観られない感じのやつじゃね?」
「テレビで普通に観たんだよなぁ」
「……お袋さんと?」
「そういや、もう寝ろとか言われなかったっけな。エロいなって目で観てなかったし、気まずいって思わなかったんじゃねえかな。次の日学校じゃここの話でもちきりだったけど」
「うーん……いいのかなぁ……。まあいいのか……」
 そんな会話を交わしながら、紅雀は蒼葉をちらちらと気にしてしまう。横顔は今のところ落ち着いているように見え、視線を移せば枕とオールメイトとがまだ胡座をかいた上にある。枕の飾り紐を指に絡めていじっていて、その下はどうなっているだろう。反応しているのかいないのか。
 紅雀はというと、画面の中で行われている行為にひそかに興奮していた。男にまたがって動くヒロインの腰に骨ばった指が食い込むさまに、つい蒼葉を重ねてしまったりして。こういう妄想は思い出も蒼葉のことも汚してしまうだろうか。どうかな。
「ミズキが言ってたのって、エロかったとか?」
「んー……。……っ、!?」
 ふいにちょっかいをかけたくなり、また蒼葉の肩へのしかかってみる。加減なしに体重をかけたせいか虚をつかれたためか、今度は紅雀ごとベッドへと倒れ込んでしまった。その拍子に枕が転がり、蓮とベニとが放り出される。あっと手を伸ばそうとするのを阻み、後ろから抱きすくめた。
「蒼葉」
「……こら、っ、ちょっと……!」
 ハーフパンツをまとった腿を撫でるや、びくんと思った以上の反応が返る。やはり蒼葉もそれなりに興奮していたのだろうか。首筋へ鼻先を埋めながら股間へ手を這わせると、触れる前に手首を掴まれた。
「ここまできてんだから、最後まで観させろって……っ」
「仕方ねえなぁ」
「……ん、どっちが……!」
 腕の中で身じろぐ蒼葉の顎の付け根へ唇を落とし、紅雀はそれきり動きを止めた。力を抜けば、容赦なく締めつけてきていた手首の拘束も弱くなる。息をついてまったくもうとぼやく声を聞きながら蒼葉の腹の近くへ手を着地させ、改めて映画に集中することにした。じゃれている間にベッドシーンは終了したらしかった。
「巻き戻すか?」
「お前が見たいんなら構わねーけど……」
 少しだけ逡巡したものの、巻き戻すのはやめた。事後の余韻に浸るふたりの表情が目に留まり、そのまま見ていたくなったからだ。
『夢みたいだ』
 微笑むヒロインの頬を愛おしげに撫でる主人公の台詞に既視感を覚え、蒼葉を初めて抱いたときに同じことを口にしたのだったとすぐに思い出した。どんだけがむしゃらだったんだよと気恥ずかしさが湧いて、紅雀は思わず苦笑した。
『夢じゃないわ』
 そのとき蒼葉から今みたいな言葉は返って来なかったし、これまで言われたこともない。言ってほしいと乞うつもりもない。紅雀に向けられるまなざしや声音、今触れ合っているところから伝わるぬくもりがその言葉を代弁してくれる。……大丈夫、夢じゃない。今でも夢みたいだって思う瞬間はあるけど。
 連鎖的に、以前蒼葉に問われたことも頭に浮かんだ。映画の中のふたりのようにふわふわと事後のけだるさを味わっていたとき、今のこの瞬間を夢に見たことがあるかと訊かれたのだった。目の前の相手のことを考えるので精一杯なあまり質問に答えるだけで終わったが、もしかして蒼葉はあの体とともに心を繋いだあとにしか味わえない甘怠い時間を夢に見たことがあるのだろうか。
 だとしたら、それが断片的なものであれ現実として目の前に降ってきた瞬間、どれほどの感慨を覚えることだろう。自分ならきっと、たまらなく幸せだと感じる。今過ごしている時間が夢じゃないことを改めて実感しただろう。蒼葉はあのとき同じことを感じてくれていたのだろうか。紅雀があると答えていたなら、それを教えてくれただろうか。
『愛してる』
『私もよ』
 軽いキスを繰り返すふたりを見ながら、紅雀はもう一度蒼葉を抱き寄せる。今度は特に抵抗もなく、腰に回した腕に手がかけられただけだった。花を模したシャンプーの香りがふんわりと鼻腔をくすぐるのに知らず頬がゆるむ。
「ベニと蓮、起こす?」
「あとにしようぜ。今起こすとうるせぇし、まだこうしてたいし」
「……うん」
 それきり静かなシーンは終わりを告げ、再び部屋の中が銃声や爆破音で満たされ始める。あれだけ男の上で乱れた挙句ろくに休めもしなかっただろうによくもまあこれほどの運動量をこなせるものだと、紅雀はヒロインの活躍ぶりに身も蓋もない感想を抱いてしまった。これくらいタフでなけりゃ惚れた男のために時間なんて超えて来られないか。そう考えながら視界に映った蒼葉の肩の線をぼんやりとたどる。
 ……なんだかな。俺のことを知りたいって気持ちを寄せてくれてたのは確かだが、この女みたいに恋人ってわけじゃなかったのに、それでも俺の中に入り込んで来たんだ、こいつは。自分の身の危険なんて顧みず、恐れずに。そうやって俺の人生引っくり返しといて、今これ観ながら別に俺こんなんじゃないよなとか思ってるんだろうな。なんだかな……。
 ため息をつく紅雀の腕の中で蒼葉が身じろいだ。画面の中では巨大な廃工場を舞台にしたクライマックスのシーン、人ひとりがようやく歩けるほどの足場で主人公と刺客との立ち回りが繰り広げられ、バランスを崩した主人公が転落しそうになったところだった。伸ばした手で足場を掴んだとたん、蒼葉も腰に回された紅雀の腕を掴んできた。
 それからしばらく息もつかせぬ攻防が続き、とうとう勝敗が決する。刺客の男がはるか下の地面へと落下し、みるみる小さくなって消えていくさまを主人公が見下ろすカットが流れるや手の力がゆるんだ。紅雀はちらりとそちらへ目をやり、唇の端を上げた。
  死闘を見守っていたヒロインが男のもとへ駆け寄り、ふたりはかたく抱き合う。濃厚なキスを繰り返す間に彼女の目から涙がこぼれた。戦いの終わりは同時にふたりがともに過ごせる時間の終わりでもあった。結ばれたものの、本来生きるべき時間の違うふたりには別れが訪れる。遠い未来での出逢いのために。姿を消してしまう前にヒロインの残した言葉がひどく今の紅雀の心に残った。
『もう一度会うまでの間、今日までのことは私たちにとって夢になってしまう。でも、いつか夢じゃなくなるって信じてる。……待ってるわ』
 もし碧島へ戻ることがなかったなら、蒼葉と過ごした幼い日々の思い出もそのうち夢の中の出来事のようにしか感じられなくなってしまっていただろうか。形をなくして、おぼろげなものになって。悩んだ末に再び島へ渡ることにしたのは、それが怖かったせいでもあった。孤独に耐えられなくなるたび思い浮かべていた蒼葉の笑顔が幻でないかどうかを確かめたかった。再会した日、紅雀を見て驚いていた蒼葉がやがてふわりと笑顔を見せたとき、そこにかつての面影を感じられたことがどれほどうれしかったか。
 その日から今日までの間、変わったところも変わらないところも好きになって、気づかぬうちに好きだという気持ちの蕾に今までと違う意味と色とが加わり、プラチナ・ジェイルでの数日間を経て抑えようもなく花開いた。時々同じ時間を過ごして笑顔を見らればいい、蒼葉にとって居心地のいい距離で見守っていよう、いつか蒼葉が恋人や伴侶を得たときには心から祝福しようと決めていたのに。隠しておける自信があったなら胸に秘めたままだったかもしれない。でも無理で、蒼葉に嘘をつくこともできなくて、何より誰にも渡したくなかった。
 気持ちを通い合わせて以来蒼葉への想いは日々増すばかりで、愛していると言えるようになるのはいつだろうか。たぶんそのときが来たら、考えるよりも早く口をついて出るのだろう。それまではたくさん、嫌というほど好きだと言いたい。
 画面が暗転し音楽が流れ始めるなり蒼葉の肩が動き、ほうっと息が漏らされた。どういう意味の吐息なのか気にかかったところで紅雀の手に指が触れ、ぼそりとこんなことを言われた。
「……恋したくなったって」
「うん?」
「これ観て。ミズキがさ、彼女欲しくなったんだって」
「……。へえ」
 なるほど、アクションそっちのけの感想だ。どこで一番その思いが強くなったのやら。今度会ったら訊いてみようかと考えていると、軽く手の甲を引っかかれた。もの言いたげな仕草をする手を包み、指を絡ませてやる。
「お前もそうだったんだなあって、なんか思った」
「……、あぁ、うん、まぁそうだな……」
 遠慮がちにそう言われて、だんだん裸を晒してしまったような気分になってきてしまった。未来を、明るいそれを掴めるかどうかわからない自分の前にもしこのヒロインのようにともに戦ってくれる誰かが現れてくれたなら、どんなにか心強いだろう──言うなればこの映画の一部は紅雀の儚い願望の塊だ。まだ幼く、純粋さを多く持っていた頃からの。果たして見せてよかったのだろうかといたたまれず、紅雀は蒼葉の首筋に顔をうずめる。息をついて絡めた指をしきりに動かした。
「じゃあお前は? どう思ったんだよ」
「恋……、なら、もうしてるし、相手だっているし別に。まぁ、もっと仲良くなりたくはなった、かな……?」
 小さな声が響いたあと、蒼葉ももぞもぞと指を動かしてくる。心なしか体温が上がってきている気がして、明るければ赤くなった肌を見られたかもしれなかった。しばらく経つと気恥ずかしさを通り越していい大人がふたりして何やってんだかと少しおかしくなってくる。中学生じゃあるまいし。ただずっと気づかないまま胸の中で温めてきた恋だから、そういうものなのかもしれない。笑み崩れた紅雀はたまらず蒼葉の耳元へ囁きかける。
「そっか。恋してんのかぁ。俺もだ。……好きだよ、蒼葉」
「……。……う、ん」
「あーおーば。こっち」
 軽く手を引っ張りながら少し離れてやると蒼葉がおずおずと体を返し、仰向ける。紅雀は絡めた指をそのままに少し居心地の悪そうな表情を浮かべた蒼葉へと顔を近づけた。まだエンドロールが流れているようで、画面から発された光がちらちらと恋人を照らす。瞳の中で迷うように揺れるそれは、蒼葉の心情と同調しているのかもしれなかった。
「仲良くって、たとえば?」
「それは、……っ」
 答えを聞く前に髪へ口づけると息を呑む気配がした。指がびくんと反応するのにつられ、紅雀の唇が弧を描く。蒼葉、なんて言ってくるかな。期待に鼓動が速くなるのを感じながら、とっさにぎゅっと閉じられた恋人の瞼が持ち上がるのを待つ。
「ん?」
「たとえば……、ん、……キスしたり……」
「こういうの?」
 こめかみへ唇を落とし、蒼葉の言葉を聞いてからふわりと唇を触れ合わせた。すぐに離れると、蒼葉が目で追いかけてくる。それから不満げに眉を寄せられた。
「もっと、ちゃんとしたやつ」
「じゃあ、このくらい」
 はっきりとした答えが返るのを意外に思いつつ、さっきよりもしっかりと唇を押し当ててやる。眉間の皺は少し和らいだもののなくなりはしなかった。すると蒼葉が手を伸ばし、紅雀の頭を引き寄せてきた。うっすらと開かれた唇が近づいたかと思えば、あたたかく湿った感触が伝わった。
「……、ん」
 上唇がやわらかな粘膜に包まれ、軽く引っ張られて離れた。吐息がかかり、下唇も同じようにされる。与えられる愛撫を楽しみながら、おやと思った。さっき映画の中で見たものと似通ったキスだったからだ。気づいたとたんにやりとしてしまう。わざとなのか無意識なのかはわからないが、それを自分としたいと思ってくれたわけだ。……ああもう。
「っ、……!」
 ふいに唇を舐めてやると、蒼葉が伏せていた瞼をぱちりと開けた。驚いたように見上げてくるのに瞼を伏せ、紅雀はゆっくりと身を屈める。
「……もうちょっと、こうだろ」
 やや角度をつけ音を立てて軽く触れ、やんわりと蒼葉の下唇を捕らえる。挟んで食み、あたたかな皮膚をそっと吸ってやる。薄く開かれていた蒼葉の目が紅雀からそらされ、切なげに細められてから閉じられた。唇の窪みを舌でなぞって甘く歯を立てるなり蒼葉の顎がわずかに上がった。
「ふあ……っ」
 そのまま離れずに唇をずらし、上唇も優しく愛撫してやる。内側へ舌を這わせると後頭部を掴んでいる手が握りこまれ、くしゃりと髪を乱された。組み合わせた手をシーツへ押し付けざま握り、蒼葉、とほとんど音にならない声を唇ごしに伝えると、蒼葉が紅雀を真似てキスを返してくる。さっきよりも巧みで情熱的なそれに、紅雀は口づけを受けながら笑んでいた。繰り返し互いの唇と舌とを愛し合い、ようやく離れると、ぼうっとした目で淡く息を吐く蒼葉の額へ自分のそれをくっつけてやる。
「キスだけ?」
 訊ねると、かすかに首を振られる。鼻先が蒼葉のものと触れ合い、紅雀はくすぐったさから頬をゆるめた。
「言ってみな。蒼葉」
「……お前、ああいうことしたいの?」
「ああいうこと?」
「……乗っかられたりとか……」
 首をかしげれば、言いにくそうにぼそりとそう告げた蒼葉から上目遣いに見上げられる。乗っかられるって何に。訊こうとして、ふと脳裏へ降ってきたその意味に目を見開いた。
「へ」
「したい……?」
「……っ」
 まばたくたびに震える睫毛を見、紅雀はごくりと唾を飲み込んだ。それって。横目で蒼葉の腰を盗み見、視線を戻す。鼓動がやけにはっきりと感じ取れ、さっき視界に映ったTシャツの皺をぼんやりと思い浮かべながら口を開く。
「蒼葉が構わねぇっていうならもちろん……、いや、こういう言い方は潔くねぇな。──したいよ。お前となら、なんだってさ。……お前がどんな顔してくれるか見たい」
 そうして、まだソファは必要ないかなと思った。ベッドで事足りるし、何よりこんなとき、恋人を待たせずにすむ。覆い被さるようにしてもう一度キスを仕掛けながらTシャツの裾から手を潜り込ませると、蒼葉が身じろいだ。じき汗に濡れどちらのものともつかない熱を持つだろう肌が、今はさらりとした感触を伝えた。