色なき世界を撫でるいろ

 今日は久しぶりにいい日だ。ウイルスとの賭けには負けたものの、蒼葉が捕まったからだ。
 トリップとしては毎日蒼葉に会える方に賭けたいのに、それでは賭けにならない。何もしないでいるのもつまらないから、賭けをする。そうして蒼葉のことを考える。会いたくなる。だからこそ、蒼葉が姿を見せるのは僥倖だった。
 ウイルスとて同じだろう。蒼葉に会えれば勝ち負けなどどうでもよくなるのだから、結局のところどちらに賭けても損はしない。うだる空気を長い脚でかき分けるようにして雑然とした通りを歩きながら、トリップはぽつりと呟いた。
「蒼葉、今日も可愛かった」
「そうだな」
「ちょっと元気なかったけど。たまにはいいね」
 ランチの天ざる定食はトリップにとってボリュームこそ足りなかったものの、ピークタイムだというのに提供が遅れることはなく肝心の味も申し分なかったし、蒼葉も満足したようだった。蒼葉といられる時間は楽しかった。午後からの仕事がひどく億劫で、一緒に帰ろうと蒼葉に子どもみたいに絡みたくなるくらいに。
 本当に、あのまま連れて帰りたかった。何かに悩んで淡いため息をついている蒼葉にいやに劣情をかき立てられたからだ。
 ──……性癖?
 その言葉を少し迷ったように蒼葉が口にした瞬間、トリップの中で妄想が迸った。じっと見られて居心地が悪そうにしている表情がとても良かった。何かしら感じ取ったのだろう、わずかに警戒したような目つきもひそかにトリップを興奮させた。
「あー。ほんと帰りたい。駄目?」
「馬鹿言うな」
「生理休暇取りたい」
「何が生理だ」
「だってさ。なんかきちゃったんだよ、今日の蒼葉」
「……は?」
 汚いものでも見るような視線が向けられたが、トリップはどこ吹く風だ。
「なんにも感じなかったの? お前」
「なんにもってわけじゃないが、お前みたいなことは考えてない」
「へえ。ほんとかな」
 そう言ってはみたものの、ウイルスが自分と同じことを考えていないのは、今ばかりは好都合だった。妄想の中でくらいひとりじめしたいのだ。もっともしらばっくれているだけかもしれないが。涼しい顔をして、ときには場所も状況も問わずえげつない想像をしているのを知っている。さっきも飲み食いしている蒼葉を見ながら何を思ったのやら。
 店から出る前、前を歩く蒼葉を羽交い締めにしてしまいたくて仕方なかった。髪の上からうなじに鼻を押し付けて匂いを嗅いで、痛みを訴えてきても決して離さない。髪ごと首筋に噛み付きシャツの中に忍び込ませた手で肌をまさぐって胸の隆起を撫で上げ、大してやわらかくもない肉を女にするように揉みしだいて乳首を摘み上げたらいったいどんな声を出すだろう。突然そんなことをされたら、蒼葉の中で混乱と苦痛と快感のうちどの感覚が勝るだろうか。
 暴れる体を組み伏せてとろけさせて、煙草の匂いなんて消えてしまうくらい、他の人間のことなど考える暇もないほどぐちゃぐちゃのどろどろに犯して穢してやりたい。蒼葉がトリップの欲望に火をつけてから、ずっとそんな妄想に耽っていた。
 もしかしたら、蒼葉は怒るだろうか。泣くのかもしれない。でも仕方ない。そうさせるのは蒼葉なのだから。あんな匂いをまとって、他の誰かのことを考えてため息なんてつくからいけない。そう考えて、自分の中であまり馴染みのない感情の波がほんのわずか生まれているらしいことに気づいた。もしかして──怒っているのだろうか。自分は。煙草の持ち主にか。蒼葉を悩ませているものに対してか。それとも蒼葉自身に?
 しばらく考えてみたものの、結論は出なかった。出したところで実りはなかろうと、それきり考えるのをやめた。どうせ考えるなら、蒼葉の淫らな姿の方がいい。
 と、横を歩いていたウイルスが歩調をゆるめながら手首のコイルへと視線を落とした。メールでも来たらしい。神経質なところのあるこの同僚は着信音を設定するのを好まない。たまたま視界に飛び込んできた貼り紙に気をとられていると、トリップ、と声がかかった。いい知らせだと瞬時に判断した。どういうわけか自分へ向けるにしてはいつもより声音がやわらかいからだ。
「仕事終わったら、ご褒美にアイス買ってやるよ」
「うん?」
 ほら、と足を止めたウイルスがコイルの画面を見せてくる。数秒眺めて、トリップは口角を上げた。
「……ほんと可愛い。蒼葉」
「もしかして、相談料のつもりかな」
 ウイルスも楽しげに笑った。画面に映っていたのは電子マネーの送金メール。「アイス買えば」というメッセージにふざけたような顔の絵文字つきで、安価なものが二つ買えるくらいの額だった。送り主はもちろん蒼葉だ。
 アイス食いたい、なんて適当にこぼした言葉を蒼葉が覚えていてくれたことに心が躍る。どんな顔をしてこれを送ったのだろうと思うと、胸の中でふわりと巻き起こった感情にそれまでの妄想が吹き飛ばされた。浮き足立ってしまいそうな、不可思議な感情だった。
「なんにしよ」
「予算が少ないから、選択肢は限られるな」
「チョコにするかな。ソーダかな」
 ふたりしてにやにやしながら人通りの増えてきた青柳通りにさしかかったところで、またウイルスがコイルに目をやる気配がした。つられて彼の手許を見、次にウイルス自身に視線を移せば、清水を閉じ込めた珠のような瞳と目が合った。わずかにゆるんでいた表情をすっと引き締めたウイルスは、淡い金の睫毛を眼鏡の内側でまばたかせてから薄い唇を開く。
「出番だ。──20分後、東地区の裏通り」
「了解」
 トリップは緩慢な動作で伸びをした。腹ごなしにはちょうど良さそうだ。気分がいいから、楯突いてくる奴には時間をかけて丁寧に相手をしてやろう。解説つきで関節を外してやろうか。骨を折ってもいい。きっといい音が聞けるだろう。誰かの体をきれいに壊すことは、案外楽しい。
「それじゃ、めんどくせーけど定時までお仕事頑張りますか」
 あくびしながらばきりと手の骨を鳴らしたところで、ふと思い出した。
「さっきのあれ。笑ったな」
「ん?」
「『治るといいですね』ってやつ」
「ああ」
 食後に頭痛薬を飲んでいる蒼葉に向かってウイルスがかけた言葉だった。傍から見ればいたわっているかのような。目が合った瞬間、互いの唇からくっと声が漏れた。
 頭痛に苦しんでいる蒼葉をほんの少し可哀想に思うこともあるが、それは蒼葉がかつて自分たちの手にかかった事実を実感できる姿でもあった。今や蒼葉すら知らない蒼葉を、トリップとウイルスだけが知っている。その秘密は、自分たちを高揚させる。俺たちの蒼葉。蒼葉は、俺たちのもの。奪い取られた真実に気づくこともなく無邪気に笑いかけてくる、愚かで可愛い生き物。
「ひどいね」
「お前が言うなよ。あのとき、すごく楽しそうだったじゃないか。蒼葉さん、苦しそうだったぞ」
「そう? 気持ち良さそうだなって思ったけど」
 『sly blue』と名乗り自堕落に生きていた頃の蒼葉はライムで無敵を誇りながらも鬱憤を持て余し、周囲の熱気をよそに瞳に暝い炎を宿していた。蒼葉に近づき、きりきりと張りつめていくさまを眺めるのは愉快だった。つついてあやしてなだめて、そのたび返ってくる反応のことごとくが自分たちを満足させたし、べたべたに構って甘やかしてやったときのわずかに警戒を解く顔がとりわけ好きだった。
 誰かのことを知りたいなどと思うのは、トリップにとって初めてのことだった。周りの人間はまともな色も形もしていなかったし、唯一存在を認め同調することのできていたウイルスにでさえ──必要がなかったとはいえ──そういった感覚は持ち合わせていなかった。最初はそれを奇妙に思ったものだ。楽しい人だと、ウイルスが蒼葉をそう評するまで。ああそうだ、自分たちを楽しませてくれる存在だから知りたくなるのだと腑に落ちてからは、なんの疑問も抱かずに蒼葉に傾倒していった。
 初めて笑顔と呼べるものを向けられた瞬間の感慨は、今でもトリップの胸に焼き付いている。ライムフィールドでの強烈なものとは違う素朴なその輝きを何度でも見たくて、それ以来ウイルスとふたり、つるんでいると周知されるほどに頻繁に蒼葉につきまとうようになった。今や旧住民区で覚えている者もいない蜜月とも言える時間は、事故の日まで続いた。
 ライム事故は、一人勝ちをよしとしないライマーの集団が蒼葉を襲ったのが事の発端だった。廃人となった者を含め多くの当事者が病院送りになったが、心身ともに限界を迎えた蒼葉自身も無事ではすまなかった。事故の直後、精神の均衡を崩し錯乱状態に陥った蒼葉はこんなのは違う、ここじゃない、こんな風になりたかったんじゃないと泣きじゃくりながらうわ言のように繰り返した。
 ──……みたいに、なりたかったのに。
 一度きり、ぽつりとこぼされたそれを不思議な言葉だと思った。蒼葉は蒼葉だからいいのに、別のものになりたがるなんて。暴露の力が発現していたわけではなく、そもそも自分に蒼葉の言葉が届くはずもないのに、その声はいつまでも胸に残った。
「綺麗だったな。壊れてく蒼葉」
 こんなものいらない、消して、壊してほしいと望んだくせに、それに手をかけたとき、蒼葉は抵抗したのだ。
 深い海の底に眠る沈没船の中の宝物のように、蒼葉が心の片隅で守っていたきれいなもの。それは眩しくてあたたかくて、トリップにはよくわからないものであふれていて、容赦なく握り潰してやりたくなった。粉々になった瞬間の苦悶に満ちた表情は格別で、思い出すたび愉快だった。
「……ああ。確かに、綺麗だった」
「また見たい」
「そうだな」
 通りの奥へと入り込むにつれ人影が減っていき、ついには消えた。道幅も狭くなり、トリップはウイルスの背後に位置した。靴のソールこそ音は立てないが、地面を擦り砂塵を踏むわずかな音が耳に入ってくる。周辺に吐瀉物でもあるのか、饐えた匂いが鼻腔に届いた。
 蒼葉が口走った聞き慣れない言葉が人の名前だとわかったのは、ライム事故の処理の最中だった。初めて蒼葉の生い立ちを知った当時は自分たちの関心から外れていたせいで見落としていた事項。調べてみれば、その人物は少しばかりトリップとウイルスの興をそそった。蒼葉のそばにありながら、実のところ自分たちに近い性質を持つ存在だったからだ。
 長く島を離れていたその男が戻って来たと知り、面白いことになりそうだと思うと同時に感じていた相容れなさは、初めて声をかけた日に確信に変わった。相手もすぐに自分たちの匂いに気づいたようだった。なんでもない顔で世間話をしながらほんの一瞬鋭くなった目をふたりとも見逃さなかった。
 こちらがわに属する人間のくせに対岸に立ち、明るい太陽の下でまっすぐ生きようとあがいているあの男の矛盾がトリップにとっては滑稽で無駄なものに映る。話をするのはほぼウイルスの役目だったが、接触を試みるたび相手が嫌悪感を露にしていくのがおかしかった。俺はお前たちとは違うと言いたげな険しい表情をいつも嗤ってやりたくなる。それもまた、トリップには珍しい現象と言えた。
「あとどれくらい待つ?」
「東江次第だが……今の進捗状況なら、そう長くはかからないんじゃないか」
「ふうん。蒼葉、全部知っちゃったらどうするかな」
 東江が動き出したときに蒼葉が知るのは、きっと自分自身のことだけではない。あれの化けの皮が剥がれてひた隠しにしているだろう過去とけだものとしての本性が明らかになったとき、蒼葉がどんな反応を示すか興味があった。今だって些細なことであれだけ揺れているのだから、こうなりたかったと願った相手がどんな人間なのかを知ればさぞ動揺するだろう。そう思うと、うっすら笑みが浮かんだ。
「さあ、どうだろう。とりあえず、大事な人間が誰も彼も巻き込まれたら怒るだろうな。それはもう、カンカンに」
 トリップは思わず噴き出した。そう仕向けるつもりなのだろうに、他人事のように話すのがツボに入ったのだ。ウイルスは構わずに前を歩いていく。
「そのときに何をどう選ぶのかは、蒼葉さん次第だ。どうなるにせよ、楽しませてもらえればそれでいいさ」
「知らなきゃ知らないで、教えてあげればいいよね。そういうの好きでしょ。蒼葉のこといじめながらとかさ」
 個人的にはどうでもいい事柄だったが、ウイルスならきっと、あれについて知りえたことを逐一吹き込んでみたりするのだろう。それはもう丁寧に。耳許で睦言のように囁くさまが目に浮かぶようだった。今日のように同情し慰めるふりをして言いくるめて、蒼葉を組み敷きさえするかもしれない。
「お前の想像の方がよっぽどひどい」
「そう?」
 的外れでもないだろうにと、トリップは肩をすくめた。
 蒼葉の笑顔を見るたび思う。この体の中にまた、あのきれいなものは生まれているだろうか。小さなかけらくらいは育ちつつあるのだろうか。見たい。この目で確かめて──もう一度あれをめちゃくちゃに壊してやりたい。頬を伝う涙の輝きを眺め、とびきり甘いだろうそれを舐めとることができたら、どんなにか心が躍るだろう。
 万が一蒼葉が手に入るなんて幸運が舞い込んだなら、大切にしているものすべてを踏みにじって隠すところなどなくなるほどに何もかもを剥ぎ取ってしまいたい。底の底まで堕としてひとすじの糸すら垂らさずひたすら奪い去ってやったら蒼葉はトリップをどう思い、どんな風に自分を変質させていくだろうか。
「ああ……、タマネギ」
 ふとした思いつきを普通に喋るのと同じ音量でひとりごちたせいで、前を歩くウイルスが振り返った。
「蒼葉って、タマネギみたいな感じ?」
「なんだって?」
 ぴたりと足が止まり、突然何を言い出すのかと言いたげに眉間に皺が寄せられる。冷ややかな目を覆った眼鏡のフレームを目でなぞりながら、トリップは首をかしげた。
「間抜けで可愛くて、剥いちゃいたいとか思ってる? ……うすーい茶色の皮の下に白いのが透けてんの、確かにちょっとエロいよね。端っこの青いとこも。生で食ったら意外に甘かったりして」
 皮を剥く仕草をしてにやりと笑うと細く整えられた眉が跳ね上がり、やがて不快そうな表情になった。
「どこまで真っ白いか知りたい?」
「トリップ」
「知りたいの?」
「アイスが欲しかったら黙れ」
「……ちぇ。つまんないの」
 せっかくの楽しみが奪われてしまっては困る。しぶしぶ諦めると、ウイルスがあからさまなため息を漏らした。そのままくるりと背を向けて再び歩き出す。肩をすくめ、トリップはのんびりとその後を追った。上唇をぺろりと舐めながらもう一度アイスのことを考えて、ひらめいた。
 あぁそうだ。味はどうでもいい、当たりつきのやつがいい。当たったら、蒼葉に渡すのだ。なんだこれと苦笑されそうだが、そんな顔もきっと可愛い。
 想像すると、またふわりと胸の中で感情が湧いた。それは名前のない、けれど心地良い風のような、トリップの知らない色をしていた。