あなたには言えない

「もしかして、機嫌悪いですか?」
「え?」
「ここ。皺になってる」
 横から伸びてきた指に軽く眉間をつつかれる。避ける間もなかったが、幸い髪には触られなかった。
「あー……」
「なんかあった? 蒼葉」
 大きな手が離れていったあと、皺を伸ばすように中指で眉間を撫でる。
 配達の帰り、たまたま会ったウイルスとトリップに連れられて入った店で昼食をとっているところだった。天ぷら食べたくありませんか? つゆより塩で食べるのがおいしいところ。という誘い文句についつられたのだ。蒸し暑く、ちょうど塩気のあるものが食べたいと思っていたし、うどんと蕎麦がメインの店で今なら天ざる定食が絶品だと言われれば断る理由もなかった。
 この双子のような友人に連れて行かれるのは蒼葉の知らない店ばかりで、時にはこいつらこんなとこ来るのかと驚くほど狭かったり小汚かったりするのだが、口に合わなかったことがない。今日も予想に違わず揚げたてさくさくの天ぷらが出てきて、食べ始めたときには頬がゆるんでいたのに、いつの間にか今夜の予定について考えて気分が沈んでしまっていた。
「……付き合いのある相手にどうしても我慢できないとこがあるときって、お前らどうしてる?」
「そんな奴と付き合わねーし」
「面倒くさいので避けますね」
 だるそうな声と興味の薄そうな声が同時に右と左から届く。タイミング悪く昼のピークにぶつかってしまい、テーブル席は埋まってしまっていた。いつもならカウンターでも気にしないところだが、少し込み入った話をするには向かない。
 特にこの二人は蒼葉を挟むときわざとステレオで、しかも同じようなテンポで話すことがあるから、聞き分けて理解するのに骨が折れる。自分はまだ彼らに関心を持たれている方だと自覚しているが、いいようにからかわれたりどうでもよさそうな態度をとられることも少なくなかった。
 どうでもよさそうでもさすがに無視はされないだろうと、定食の吸い物に浮かんでいる小さな豆腐をぼんやり眺めながらとりあえず話を続けてみる。その方がまだ気が紛れる。
「仕事とかでさ。事情があって付き合わなきゃならないときはどうすんの」
 一般常識とはかけ離れた世界に身を置いているだけに、そういう社会経験はこの二人の方が積んでいそうだ。有意義な回答が得られるかどうかは別として。
「えー。やだなあ」
「その我慢できないところとやらを受け流すしかないでしょうねぇ」
「受け流すって、どうやって?」
「どうも何も言葉の通りですよ。そういうお悩みなんですか?」
「や、俺じゃなくて……」
 とっさにごまかすと、にやにやと両側から笑われる。見えないけれど、間違いなく笑われている。恥ずかしくなったが今更自分のことだと言うわけにもいかず、ざるに残っていた蕎麦を箸で掴んだ。
「律儀だねー蒼葉は」
「他人のことまで真面目に考えすぎじゃないですか。蒼葉さんらしいですけどね」
「蒼葉だったらどうすんの」
 少し水っぽくなってしまっている麺をつるりと飲み込み、つゆに溶かしたわさびの刺激をやりすごしているところへ、トリップが訊ねてくる。
「ん?」
「我慢できないとこ」
「え、いや……、どうしよ……?」
 そう振られるとは思っていなかった。そもそもそれを知りたいのだから答えられるわけもない。
「我慢できないポイントにもよりますよね。どういうところなんですか?」
「そーそー、わかんないと答えようがない」
 乗り気になってくれたのはいいが、だんだんやりづらい流れになっている気がして居心地が悪くなってきてしまった。失敗した。
 挟まれているというのがまたよくない。さっきまでは気にならなかった腕と腕が触れ合いそうな距離に思わず体を縮める。真夏だというのに二人はいつもと変わらず長袖にスーツという格好だから肌が直接触れるということはないのだが、それでもわずかなりとも距離を保っていたかった。
「……性癖?」
 正しくは、女癖。それもかなりひどい。
「なにそれ。縛るの好きとか?」
「ちっげーよ。なんでそういう方向にいくんだよ。つかお前のだろそれ」
 呆れてトリップを見る。真っ先に食事を終えていた彼はカウンターに頬杖をついて楽しげな笑みを浮かべている。普段はどこを見ているのか掴みづらい澄んだ水をたたえたような目がやけにしっかりと自分をとらえ、無遠慮に覗き込んでくるのがどことなく嫌だった。体の中に手を突っ込まれて喉のあたりの骨をざらりと撫でられている、そんな感じがする。
「知りたい?」
「いや、いい」
 丁重にお断りする。何が飛び出してくるかわからないし、昼間からしたい話でもない。夜だったとしても、今はそういう話をしたい心境ではなかった。
「なんだ。残念」
 声のトーンも表情もまったく変わらないので、とても残念そうには見えない。息をついて向き直り、残った食事を片付けることにする。そこへ、お下げしてよろしいでしょうかと声がかかった。自分にかと思えば、いつの間に食べ終えたのか、ウイルスがトレーを店員に渡している。
「発想を変えるというのはどうでしょう」
 ちょうど炊き込みごはんを口に入れたところで、返事ができないかわりにウイルスの方を見やる。もぐもぐと口を動かしていると、眼鏡の奥の目が細められた。話が続くのかと思いきや、ウイルスはうっすら微笑んで黙ったままだ。食べているところを一方的に見られるのがじわじわと気恥ずかしくなってきてしまい、目をそらして咀嚼したものを飲み込む。含み笑いが左耳をくすぐった。
「自分が寛容に、楽になれるように。こう思えば我慢できる、そういう発想をする」
 詩を諳んじるような言い方だった。このタイミングは絶対わざとだと思ったが、突っ込んだところで手応えなどないのだろう。
「漠然としてんね」
「そこは考えろってこと」
「めんどくさ」
「……楽」
 見て見ぬふりなら、もうしている。それでも時々腹の底からこみ上げてくるどす黒いものを、どう処理したらいいのだろう。紅雀は悪くないのだろうに、紅雀を見るとむかむかする。そうなること自体が不可解で、耐えられない。
 それなら見なければいいのだろうが、向こうから視界に飛び込んでこられればどうしようもない。ずかずか踏み込まれて、自分の中が紅雀の足跡だらけになっている気すらする。この二人みたいに遠慮なしに近付いてくる人間はこれまでにも何人もいたが、こんな気分になるのは初めてだった。
 たとえば自分の心を部屋に例えるならば、変に荒らしたりしなければ好きに出入りしてくつろいでいけばいいとたいていの人間に対しては思えるのに、紅雀に対しては無理だった。何をされても心が波立つ。触らないでほしいと言いたくなる。昔は一緒にいればただ穏やかであたたかい気持ちになるばかりだっただけに、混乱が大きい。
 もうひと口放り込んでから視線を移すと、お冷やを飲み干したウイルスがかたわらのピッチャーを手にとり、注ぎ足しているところだった。汗をかいたグラスに再び水が満たされる様子をなんとはなしに眺めていると、水滴がひとすじついとグラスの表面をすべり、カウンターを濡らす。ふと喉の渇きを覚え、自分のグラスを掴んだ。
 あの夜、外になんて出なければ、こんな気持ちの悪い感情は抱かずにすんだのだろうか。ここしばらく、喉が渇いたときについ考えてしまうことだった。
「答えって、人それぞれでしょう? 俺がそういう奴のことはタマネギや豚だと思うようにしてるって言ったら、その通りにします? それでうまく収まりますか?」
「そういうわけじゃねーけど。参考っつかさ……」
 舌先で唇を湿らせながらぬるい水を飲み込む。タマネギ。豚。──いやそこまでは。ないな。と思った。それに少し違う。眉をひそめた自分にウイルスはにっこり笑ってみせる。
「タマネギ嫌いだっけ?」
 割り込んできたトリップの声で、彼の表情が元に戻った。微笑んでいるようで、目だけがどこか冷えている。
「間抜けで可愛いだろ。あの形と皮の艶」
「そう? 豚も?」
「豚は別に可愛くない」
「可愛いじゃん、子豚。肌のピンク色が透けてるとことか」
 ウイルスが手を伸ばし、蒼葉の手からグラスを取り上げる。底に1センチほど残った水が動きに合わせて揺れる。注がれた水と混ざり合ってまたゆらりと波を起こした。注ぎ終えて、グラスを手の中に戻してくる。指が触れ合うのに、そのまま注げばいいのにと少しだけ思ったが、水面を見たとたんにかき消えた。
 この胸の中の波をもう少し穏やかにするための発想。それってなんだろう。
 紅雀が戻って来て間もない頃、ミズキにお前ら思春期真っ最中みたいだと言われた。自分は反抗期なのだとも。勢いあまって愚痴ってしまったものの思い出すだに恥ずかしくて、それ以来ミズキには紅雀について何も話すことができなくなった。おかげでこの間見たことや紅雀にしてしまったことがわだかまったまま、このところずっともやもやしている。
 何も言わなくとも、ミズキには時々会ったり連絡をとったときに、今いくつ? と冗談混じりに訊かれる始末だ。そのたびまだ紹介してくれないのかとつつかれるが、顔を合わせたとたんにやにやされる気がして、とてもそんな気は起こらない。
 もっともドライジュースの縄張りと紅雀が商売をしている界隈はそう遠くないから、蒼葉との繋がりを知らないだけですでにお互い顔や名前くらい見知っていてもおかしくない。嫌でもそのうち繋がってしまうだろう。だったらそのときまで放っておいてもいいのではと思う。
「ところでさ。蒼葉、煙草臭いとこにいたりする?」
 グラスをカウンターに戻そうと手をのばしたところで肩に手を置かれ、トリップがぐいと身を寄せてきた。椅子ごと動いたのか、がたんと音が立つ。
「あー……匂う?」
「少し。──なんか、蒼葉には似合わない感じの匂い」
 肩口に鼻をくっつけるようにしてトリップが呟く。いつ見ても見事に立ち上がっている白くけぶるような淡い金の髪が視界に入り、これどうやってんだろ、とぼんやり眺めた。セットするのに相当時間がかかるんじゃないだろうか。呼吸のたび、かすかな整髪料の匂いが鼻腔に届いた。
「似合うとかあんの? 別に煙草臭いの初めてってわけでもないだろ。つか嗅ぐなよ。犬かっての」
「いいね、犬。俺も蒼葉のオールメイトになりたい」
「はあ?」
「そしたらずっと一緒にいられるでしょ」
「なーに言ってんだか。疲れてんの?」
「そ。撫でて」
「ばーか」
 でかい図体をして、トリップは案外甘えたがりだ。疲れてるって、ライムの邪魔になる連中ボコってるかぶらついてるとこしか見たことないけどなと苦笑して肩を押し戻した。自分が知らないところで色々と苦労もあるのだろう。そしてそれは、知らないままでいいこと。
 こいつらならそんな風に考えられるのにな。そう思いながら皿の中のものをすべて平らげ、ごちそうさまと手を合わせてから頭痛薬のシートを取り出す。
「痛むんですか?」
 錠剤を押し出していると、ウイルスがカウンターに片肘をついて体ごとこちらを向いた。視線がちらりと目の前のグラスに移り、すぐに戻ってくる。
「いや、今日は調子いい方。飲んでないのバレるとあとがこえーし、何あるかわかんねーから」
「そうですか。頭痛以外には何も?」
「ねーけど?」
 答えてから舌の上に錠剤を乗せる間に、それなら良かったとウイルスが息をついた。
「……治るといいですね。いつか」
 蒼葉は曖昧に笑った。頭痛との付き合いも長くなってきたせいか、完全になくなるという想像すらしなくなってきていた。こうなったきっかけが十代の頃に巻き込まれた喧嘩にあるらしいことしかわからないだけに治療も予防も思うようにはできず、精神的な要因が大きい可能性があるからなるべくストレスを溜めないようにと言われているくらいで、現状ではタエの処方してくれた薬で抑える方法しかない。
 それも常に完全に効くわけではないから、飲むのが億劫になることもあった。これで紅雀への感情も抑えられたならいくらでも喜んで飲むものを。グラスを手にとり、含んだ水とともに錠剤を飲み下す。少し喉に引っかかる感覚があり、さらに二口流し込んだ。水なしでも飲める薬なのだが、目の前にあるときはついこうしてしまう。
「あー働きたくない。暑いし帰ってアイス食いたい」
「やめろって。うつんだろ憂鬱が」
 ただでさえ気の進まない予定が待っているのに、これ以上テンションを落としたくない。グラスを空け、トリップの言葉を振り払うようにことんと置きざま、蒼葉はカバンを手にして席を立った。すると、それまでのだらしなさが嘘のような素早さでトリップがそれに倣う。後ろから膝を入れられかねない位置にぴったりと張り付かれ、急かされるようにレジへと向かった。
「蒼葉も一緒に帰ろ」
「帰らねーよ。今日は予定あんの」
「なんの? 誰と?」
「……飲み会。ちょっと、知り合いと」
 耳元に顔を寄せられては避ける動作を繰り返しながら歩くうち、あちこちから飛んで来た視線が刺さる。この界隈の人間のほとんどはウイルスとトリップが何者かを知っているから決して声をかけてきたりはしないが、何せどちらもそれなりに目を惹く風貌をしているので一緒にいるとまとめて遠巻きに見られるのが常だった。こうしているとじゃれ合っているみたいで、さぞ仲良く映ることだろう。迷惑とまではいかないものの、少し困る。
「ふぅん? 今度俺らとも行こうぜ。最近御無沙汰じゃん」
「お前らウワバミすぎんだよ。合わせてたら体もたねーって」
「まぁそう言わずに、時間作ってくださいよ」
 ようやくレジ前へ辿り着いたところで、後ろから両肩を掴まれた。体の向きを変えさせられたかと思えば出入口へと押しやられる。振り返ると、その場に残ったトリップがひらりと片手を振ってみせた。順番待ちの客がいたのでおとなしく従い、ウイルスとともに外へ出る。
 そのとたん、肌にちりっと刺激が走った。日差しの強さに思わず目を閉じ、瞼の裏に火花のような光が散らばるのを感じながら太陽に背を向ける。長年暮らしているというのに、夏のこの日差しに肌がいつまでも慣れてくれない。近くに植わっている木の陰が目に入り、そこへ足を向けると、ウイルスも近づいてくる。
「そっちのが忙しいんじゃね?」
「蒼葉さんの都合がつくなら、どうとでも空けますよ。──ああ、今日は俺たちに付き合ってもらったので、支払いはこちらで」
「こないだも出してもらったろー。俺が食いたかったんだからいいの。話聞いてもらったし、ちゃんと割り勘な」
 いくらかやわらいだ日差しの下でまだらに影の落ちたコイルを指差すと、ウイルスが思案するように眼鏡の奥の目をまばたかせ、それからわずかに顔を傾けて笑った。毎日街を歩き回っているのだろうに、一年を通じて肌の色の変化を感じた記憶がない。
「じゃあ、俺たちとも飲みに行く約束をしてもらえるなら受け取ります」
「は?」
「あいつも同じことを言ってごねると思いますが」
「意味わかんねー……。あーもう、わかったよ。それで……」
 ウイルスが店の中へ目線を投げる。仕方なく折れたところで、背後できゃあ、と高い声が上がった。
「紅雀さーん!」
「やっと見つけたぁ!」
「今日は絶対に結ってもらわなきゃ!!」
 思わず目が動いたが、振り返る気にはなれなかった。
「……いくらだっけ」
 コイルを操作し、ウイルスが告げた金額を送金する。そうしている間にも紅雀目当ての女が集まり始めたようで、かしましい声がいくつも上がっては遠くなる。少し離れたところにいるのだろうか。鉢合わせすることはなさそうだとそっと息をついた蒼葉の肩越しに女たちの様子を見ていたウイルスが口を開いた。
「あれ、何だかご存知ですか?」
「髪結い師だろ。何回か見かけたことあるよ」
 街で商売を始めるのだと言っていた紅雀の噂を最初に耳にしたのはデリバリーワークスだった。荷物のやりとりついでに街の情報があれこれ耳に入って来るうえ、受付のヨシエさんは見目のいい男に目がない。
 ──私の好みとは少し違うんだけど、いい男だったわよ〜。鼻の上にこう傷が入ってて、だからかしらねぇ、ちょっとやんちゃな感じもして。あれは繁盛するわね〜。私も結ってもらったら若返るかしら。蒼葉ちゃんどう思う?
 そんな風に楽しげに聞かされる紅雀の話は、自分が見知っている幼馴染みの姿とはいつも少しずれたものだった。
 知り合いなのだと言うべきか迷ったが、訊かれたことにだけ答えるにとどめた。細めに整えられた淡い色の眉がわずかに上がる。
「この界隈に姿を見せるようになって一月半かそこらだと記憶してますが、見事な集客力ですよね。蟻にたかられる飴みたいだ」
「飴ねぇ……」
 言い得て妙だが、どこか皮肉っぽい言い方だなと思った。
「おや。蒼葉さん、興味ありませんか」
「男に興味あってどーすんだよ。そもそも髪結いとか、縁ねーし」
「ああ、ご自分で切られてるんでしたっけ。女性客ばかりみたいですしねぇ。華やかなもので、夜なんか見かけるたび違う相手を連れてらっしゃいますよ。この間は路地裏でどなたかとキスされてまして、あてられてしまいました」
「……へぇ」
「女性の扱いに長けていらっしゃるようなので、髪結いよりも稼げるお仕事を紹介させていただこうと思ったら、興味がないってふられましたよ」
「仕事?」
「俺たちのシノギの中に、男性スタッフが女性をもてなす店がありまして」
「あー……白いスーツ着るような?」
 あいつなら嫌味なくらい決まりそうだとコイルの表面を親指で円を描くように撫でながら呟くと、ウイルスが鼻からふっと息を漏らした。
「白に限りませんけどね。こちらとしてはうちのシマであまり大きい顔をされると困るので、協力してもらえるとありがたかったんですが。どうも嫌われてしまったようです」
「でかい顔って、なんかすんの」
「時々誰かがお声がけしてるんじゃないでしょうか」
「…………」
 いつしか汗ばんでいた首の後ろを手のひらで拭った。何度か、紅雀が誰かに喧嘩をふっかけられているところを見かけたことがある。大太刀を持ち歩く必要があるのかと思うほど腕が立つのは知っているが、中にそういう輩が混じっているとわかれば、さすがに大丈夫なのかなと心配になる。そうそう、とウイルスが付け加えた。
「蒼葉さんも、もしお金に困るようなことがあったら言ってくださいね。いつでも紹介しますので」
「俺がスーツ着たっておねーさんにはウケねーだろ」
「そんなことありませんよ」
 トリップが店から出てきて、それきり会話が途切れる。近いうちに空いている日時を連絡しろと釘を刺されながら二人と別れた。
 店に戻り、ひととおり仕事をこなしてからコイルを見ると、いつの間にかメールが届いていた。タエからだ。
 珍しいものだと思いながら「こんや」という件名のそれを開くと、「こうじゃくをつれてかえってこい」とあった。首をかしげる。タエには今日はバイトが終わったらまっすぐ飲みに行くと言って家を出てきたのだ。相手が紅雀だということも伝えたはずだった。
「飲みのあとにって意味?」
 コイルと自宅に電話をかけてみたが、ひたすら呼出音が鳴るだけだった。出かけてしまったのかもしれない。
 二軒も三軒もはしごするつもりはないが、食事をするには遅い時間になるかもしれないのに。それとも持ち帰らせたい何かでもあるのだろうか。それなら早めに切り上げて帰った方がいいかもしれない。むしろ、早く帰りたい。
 ──飲みにでも行くか。今度。
 そう紅雀が言ってから10日ほどが経っていた。蒼葉からは特に何も言わずにいたので、てっきり立ち消えになったものと思って胸を撫で下ろしていたところへ、で、いつ暇? と訊かれたのが先週。そうして、今日の約束ができた。待ち合わせは面倒だからとごねて、夕方頃に平凡集合とざっくりしたものだ。
 雨とか槍とか降らないかな、と思ってしまう。そのときになってしまえばそれなりに楽しい時間を過ごせるのだろうが、タイミング悪く聞きたくもない話を耳にしてしまったこともあり、また紅雀に対して何か嫌な感情を持ってしまうのではないかと考えてしまって憂鬱になるのだ。
 今日という日が何事もなく終わればいいと、誰にともなく祈った。
 とりあえず飲もう。



「俺の部屋、絶対煙草臭い」
「ん?」
「言われたんだよ。匂いするって」
 乾杯のあと、早速半分ほど空けたジョッキをカウンターに置くと、蒼葉はお通しの里芋の煮付けに箸をつける。紅雀の分はいかとねぎのぬた。どちらにもそそられたが、あー里芋かな、と思ったとたん、こっちだろと器をつつかれて複雑な気分になった。
 メニューを見て食べたくなったものもいちいち紅雀に当てられ、ぽかんとしていると好み変わったか? とこともなげに言われた。モテるだけに他人の嗜好に聡いのだろうと言い聞かせたが、時折食卓をともに囲んでいるとはいえ、ここまでくるとうれしいを通り越して寒い。それとも、見透かせるくらい自分は単純なのだろうか。
「どれ」
「!?」
 紅雀の顔が近付き、半袖の肩あたりに傷の走った鼻が触れた。ぎょっとする。
「なにしてんだよ」
 あわてて身を引くと同時に離れて行った紅雀の目つきが神妙なものになる。
「あー……、悪かったな。今度消臭剤買ってくるわ」
「空気清浄機欲しいな〜」
「それもいいな」
 上目遣いにわざとらしくねだってみて、思わぬ返答にすぐに冗談だし、と付け加えた。もし本当に買ってこられでもしたら、堂々と部屋に居座る口実を与えてしまう気がして。
「わかったよ。これからはベランダで吸うって」
「…………ごめん」
「何が? ──あぁ、別に気にしてねえよ」
 先週のこと。部屋の中で煙草を吸われるのが嫌で、頭痛をこらえていたところへやってきた紅雀をベランダに叩き出したのだ。いたずら半分腹いせ半分で鍵までかけてやった。これはわざとではないのだが、そのままうっかりうたた寝し、1時間ほど閉め出してしまった。
 あわてて窓を開けると、紅雀は特に頓着した様子もなく、おう、起きたかとだけ呟いた。さすがに素直に謝った蒼葉に、ここけっこう落ち着くわと笑ったのだった。
「頭痛持ちって言ってたのに、俺の気が回らなかっただけだし。悪かったな。──言われたって、誰に。この間のダチか」
「別の奴」
「へえ」
「おかげさまで、けっこうオトモダチできたんでー」
「そっか。あの蒼葉がな〜」
 しみじみと呟かれる。そういえば、と思い当たる。紅雀が女といるところは嫌というほど見ているが、男は絡まれている以外に見かけたことがない。
「お前、女ばっかに囲まれてるけど、ダチいねーの?」
「…………」
 わずかに眉を動かした紅雀は答えずにジョッキに口をつける。図星だろうが、それだけでもない気がした。
「同級生とか、連絡とればすぐ人集まるんじゃね?」
「いや。そういうのはいいわ」
「? なんで?」
「もうだいぶ経ってるし、覚えてる奴もそういねぇだろ。どれだけ島に残ってるかもわからねえしな」
「そりゃ、出てった奴もけっこういるだろうけど……」
 紅雀母子に限らず、あの頃は島を出て行く者が後を絶たない時期だった。紅雀を見送った友人の何人かはしばらくすると姿を見なくなったし、蒼葉をいじめていた同級生もひとり、またひとりと島からいなくなった。最後のひとりが出て行ったときにはせいせいしたものだ。
 それでも、島を離れて久しいとはいえあれだけ人気者だったのだから、よほど他人に関心のない人間でもない限り思い出さないということはないはずだ。誰かひとりでも捕まえれば紅雀にならすぐ同性の友人も増えるだろう。なのにどうしてそうしないのだろう。
「別に構わねぇよ、お前いるし」
「俺?」
「こんだけの歳になったら幼馴染み通り越してダチだろ。もう」
「……はぁ」
「お前は違ぇの?」
「いや、わかんね……」 
 幼馴染みで、その延長で──今の自分たちはどんな名前の関係だろうかと考えていた。紅雀との間にどんな線を引いたらいいのだろうと。どんな形で、どんな色で。
「つか、そっか、ダチでいいんだ……普通に」
「他に何があんだよ。だいたいお前ガキの頃、俺の一番の友達になるっつってただろ」
「……そんなことまで覚えてんのか」
 淡い思い出。まともにかたちにもならないままはじけてしまった気持ちが、ふわりと胸に浮かんでくる。
 ──ばあちゃん、おれ、紅雀とけっこんしたい。そしたらずっといっしょにいられる?
 あれが恋だったのかどうかはわからない。ただ紅雀の手を離したくなくて、一緒にいたくて必死だった。ずっとそばにいるためにはどうしたらいいか、そればかり考えていた気がする。
 里芋をひとつ掴んで口に放り込むと、頬杖をついた紅雀がこちらを見た。いまいち何を考えているのか読みづらい、笑みを排した表情でぽつりとこう言われた。
「普通忘れねぇだろ。……忘れらんねえよ、お前のことは」
「…………」
 噛み砕いていた最中の里芋を思わず飲み込んでいた。二の句が継げない。まるで口説かれているみたいだと思った。紅雀にそのつもりがないとしたって、こんな風にまっすぐに目を見て意味ありげに囁かれたら勘違いするなと言う方が酷だろう。勘違いなんて、しないけれど。
「──お前、誰にでもそんなこと言ってんの」
「ん?」
「忘れられないとか、そういうの」
「ふふん。ちょっとぐっときただろ」
「くるかカバ」
 カチンときて、蒼葉は残り少なくなっていたビールを紅雀のジョッキに注いでやる。
「うわ、何すんだよ」
「ムッカつくなー。髪結いじゃなくてホストにでもなればよかったのに」
 通りかかった店員に向かって手にしたジョッキを振って二杯目を頼み、空になった手ですかさず紅雀のそれを奪う。飲ませるつもりだったが気が変わった。勢いに任せて呷ってやる。どうせ一緒に帰るのだから、潰れたって構うものか。ああそうだ、それ言っとかなきゃと思ったところで、紅雀がしょうがねえなと言いたげな目で息をつく。
「もう酔ってんのかよ。あいにく、そういうのは性に合わなくてなー」
「……やったことあんの?」
 ジョッキを取り返すつもりも追加を頼むつもりもないのか、紅雀はメニューを手にとった。
「すぐやめたけど。駄目だわ、女から金取るばっかってのは。食わせてもらうのも落ち着かねぇしよ。まっとうに働くのが一番だな。……ま、そんなこんなで色々やって今があるってわけだ」
「…………」
 のろのろとジョッキを置いた。ホストだの、食わせてもらうだの。いったいどんな生き方をしてきたのだろう。
 言外にこれ以上話す気はないと告げられているようにも取れ、またか、という気になる。ふとしたところで紅雀は自分との間に見えない壁を作ろうとする。やわらかく笑って。その向こうに何があるのだろうか。
 自分の中には半端に踏み込んでこないでほしいと思っているくせに紅雀のことは知りたがるなんて、矛盾している。それとも、お互い様か。今、この距離を保ったままどこまで踏み込んでいいのかを探り合っているような、そんな気がする。
 店員を呼んだ紅雀が日本酒を注文したところで、蒼葉は口を開いた。
「……なんで、髪結い?」
 誰々は髪がきれいで、なんて話をしていたこともあったろうか。あまり記憶にない。紅雀がこの子はどういうところが好みでと話し聞かせてくれた女子の中には髪の長い子が多かったっけかと思わなくもないが、特に髪へのこだわりはなかった気がする。みんなどこかしら可愛い、だから好きなんだと、そういうことをぬけぬけと言う奴だった。
「なんでだろうなぁ。気づいたらなってたって感じだな」
 サラダを取り分けながら、紅雀は首をかしげる。無造作に海藻と野菜の盛られた小皿がことんと目の前に置かれた。
「はしょりすぎ。それだけじゃわかんねーよ」
「長すぎて説明すんの面倒だわ。人の髪に触るのが好きだって知って、髪結い師っていいかもなあって思って、やってみたら意外と合ってて楽しかった。そんなとこだよ」
 その「長い」は、どのくらいの長さなのだろう。紅雀はこれまでどこで何をして、誰とどんな風に関わってきたのだろう。思わず喉から出かかった言葉を、蒼葉はビールで押し流す。ちりっと喉が灼け、顔をしかめたところで飛ばしすぎんなよとそっと声がかかった。
「ふぅん。どんなとこが楽しい?」
「そうだな……ちょっと切ったり整えたりしてやるだけで印象ががらっと変わるところかな。鏡見たあとのうれしそうな顔とか、見んの好きだな」
「……へぇ」
 それは、蒼葉にはわからない感覚だった。髪型は生まれてこのかたずっと変えたことがないし、長すぎると邪魔で仕方ないからやっているだけで、好んで髪を切っているわけでもない。苦痛を最小限に抑えることを心がけてハサミを入れるのはいつまでたっても緊張するばかりで気の進まない作業でしかなく、楽しさなどかけらも覚えたことがない。
 周りの人間が髪を切ったり染めたりした姿に新鮮さを感じることはあっても、自分では体験したことがないから想像しかできない。それでも、話し方や表情を見ていれば、紅雀がいい加減な気持ちで他人の髪を扱っているわけではないことくらいはわかる。歩き方などは大雑把だけれど細かな所作はやけに繊細だったりするから、きっとひとりひとりに気を配って丁寧に触れているのだろう。そんな気がした。
 紅雀に触れられて、髪型と一緒に自分の世界も変わる。本当にそんなことがあるなら、紅雀の周りに女が群がるのは決して見た目からばかりではないのだろう。ただ顔がいいから、気分をよくしてくれるからというだけであれだけの女に囲まれたりはしないだろうし、実際、街にいて聞こえてくる髪結い師としての紅雀の評判が悪かったためしがない。髪を結ってもらったとはしゃぐ女を見る限り、なんだあれ似合わねーな、と思ったこともなかった。
 想像してみる。──もしも髪の感覚がなく、紅雀に髪を切ってもらうようなことがあるとしたら。そうして、今まで知らなかった自分に出会えるのだとしたら。鏡の中にいる自分を想像してみる。具体的な髪型はイメージできないから、とにかく変身した自分がそこにいる、そんな想像。
「──なんかそれって、魔法みたいだ」
「魔法?」
 紅雀がはにかむ。するりと口から出た言葉だったが、気に入ったらしい。魔法ねえ、とひとりごちて、
「そんな大層なもんじゃねえけど、元々持ってる魅力を引き出す手伝いくらいにはなってるかな。ほんとにちょっと切るだけでも違ったりすんだぜ。お前だったら、前髪が眉にかからなくなるだけでかなり感じ変わるぞ」
 一度やってみろと前髪を切る仕草を添えて言われて、ぼんやり思い浮かべてみる。が、どうにもしっくりこなかった。変わるには変わるだろうが、子供っぽくなりすぎないだろうか。
「似合う気しねーんだけど、それ」
「バレたか」
「ふざけんなよ」
「いって!」
 蹴るには距離が足りず、かわりに軽く足を踏んでやる。小さく声を上げた紅雀に仕返しのように肩をぶつけられた。さほど強い衝撃はなかったが、衣服越しでもしっかりとした筋肉の感触が伝わる。自分との肩の大きさと位置の違いにむっとして顔を上げると、紅雀の顔が思った以上に近かった。目が合ったとたん、紅い瞳がふとやわらいで記憶の中そのままの優しい視線になる。
 触れた肩越しにあたたかさが伝わる。ああ、紅雀だなあ、と思った。
「…………」
 ──もしも。
 しばらく見つめ合って、先に目をそらしたのは蒼葉の方だった。そのまま立ち上がる。
「蒼葉?」
「……トイレ」
「おう」
 席を離れ、狭い廊下の突き当たりにあるトイレの入り口の前で立ち止まる。壁にもたれて息をついた。視線を落として、薄闇に浮かぶ自分の爪先をぼんやりと視界にとらえながら髪に手を伸ばした。毛先を軽くつまむと根元に向かってかすかな刺激が走り、鈍い痛みに似た、後味の悪い感覚が広がってゆく。
 自分で触ってさえこうなのだ。他人に──紅雀に髪をいじられるなんて、そんなもしもが実現するわけがない。馬鹿みたいだと思った。紅雀の魔法は、自分にはかからない。きっと、このままずっと。わかっていても、想像せずにいられなかった。期待せずにいられなかった。……紅雀が、自分を変えてくれることを。
 馬鹿みたいだ。もう子供じゃないのに。紅雀だって、俺が切ってやろうかなんて一言も言わないのに。冗談にすらされない、気を遣われていることが、どこかみじめだった。そんな風に感じてしまう自分自身にも嫌気がさす。紅雀が知ったらきっと呆れるだろう。やっぱりお前変わってないなと言われてしまうかもしれない。紅雀について考え出すと、ずぶずぶと深みにはまっていきそうだった。
 紅雀といると時々、自分の世界が閉じていた頃を思い出してしまう。ともに過ごした数年間の記憶は優しい思い出に満ちた幸福なものだった。といっても具体的な出来事の多くは頭から抜け落ちてしまっていて、そんな印象が強いと言う方が正しいかもしれない。幸福だったと感じる一方で、卵の殻の中でうずくまっていたようで思い返せば息苦しくもあった。
 いつまでもふたりだけでいられたなら、そのままでもよかったのかもしれない。でも、そうはいかなくなった。紅雀が島を去り、ひとり残された世界は静かで色もなく寂しいものになった。だから思いきって殻から出ることにしたのだ。そのきっかけも覚悟も、紅雀がくれたものだったけれど。
 進む方向を間違えたりもしたものの、紅雀と離れたことは自分にとってはいい意味での転機だったのだと今では思える。そうでなければいつまでも大人になれず、紅雀に頼りきりのままだったかもしれないからだ。
 ──これでよかったんだ。言い聞かせて頭を振り、ゆるんだ髪紐を結び直してから戻ろうと廊下を離れて席を見やると、紅雀のかたわらに女の姿がふたつあった。顔は見えないが、どちらも背中ほどまで長く伸ばした髪の持ち主だ。
 いったん足を止め、考えてからまた踏み出す。つとめてなんでもないような顔をして近づいていくと紅雀が真っ先に蒼葉に気づいた。目が合ったが、特に目配せされるわけでもない。やがて女たちが振り返った。ほんの一瞬、値踏みするような目が蒼葉を撫で、不自然にならない速度で笑みをまとった。
「あ、連れの人戻って来た。こんばんはぁ」
「あたしたちあっちで飲んでて。髪だけ見えてたからてっきり紅雀さんの彼女さんなのかなって思ってたんですけど、男の人って立つまで気づかなくって」
「ねー。すっごいきれいな髪なんだもん」
 あははと軽やかに笑いながら指差されたのは、ちょうど蒼葉が紅雀の陰に隠れて見えなくなりそうな位置にある小上がりのテーブル席だった。いくつかの皿と飲みかけの甘そうな色のグラスがふたつ、女たちの帰りを待っている。
「どーも。知り合い?」
「なったばっかりだけどな」
 無視するわけにもいかずひとまず挨拶だけして紅雀に話を振ると、そんな答えが返ってきた。客ではないらしい。女連れでないとわかったとたん声をかける気になったのだとしたら行動の素早さに舌を巻く。グラスを持って近づいてくるほどの神経の太さは持ち合わせていないようだったが、先の展開は読めた。
「あのー、よかったら一緒に飲みません? ふたりだけじゃ寂しいよねって言ってたとこで」
「ね」
 顔を見合わせて笑う女たちをぼんやり見ながら、だよなあ、と思った。
 こういうこと自体にはそれなりに慣れている。ミズキらと出かけた先で同じように声をかけられて楽しく飲み、その流れでコイルのナンバーを交換したりまた会ったりすることはしばしばある。そのまま気の合った子と朝まで過ごしたことも、それがきっかけで付き合うことになった相手もいた。
 慣れている、けれど。……できれば今日は、このままふたりだけでいたかったのに。
 無愛想にならない程度の表情を保って黙っていると、紅雀が口を開く。
「──悪ぃな。今日はちっと、サシでこいつの愚痴聞く約束してんだ」
「…………」
 親指でこちらを差され、耳を疑った。目を見開くと、そうですかぁ、ざんねーん、と表情を曇らす女たちに紅雀の微笑みが向けられる。街中でよく振りまいている、女用の笑い方。
「お嬢さん方とは今度またゆっくり話したいから、連絡先教えてくれるか?」
「え!?」
「ほんとですかぁ!?」
 色めき立った女たちは紅雀とコイルのナンバーを交換するや、じゃあ是非また、ごゆっくりーと上機嫌で離れていった。こんな風にアドレス帳に登録された女が何人いるのだろうと慣れたやり方にため息をつきながら椅子を引いた。
「いいのか?」
「まぁ、今日はな」
「ふーん。どっちが好み?」
 席を外している間に届いたのだろう、升酒のグラスを取り上げた紅雀が怪訝な顔をする。グラスから滴った酒が升の中にぽつんと落ちた。
「ん?」
「あの子らだよ。胸でかい方? 美人な方? それとも、両方面倒見るわけ?」
「……蒼葉」
「路チューの相手はどーすんのかな?」
「…………」
「なんかいちいち違う女だよなー。黙ってっからって知らねーと思ってた? どういうこと?」
 たたみかけると、紅雀が黙り込んだ。気まずげな、浮気がばれたときの男ってこういう顔すんのかな、そう思ってしまうような表情でさりげなく目を泳がせている。こんな反応をされるとは予想しておらず、宙に浮いたままのグラスを見てつい笑ってしまった。
 いろんな子が自分を気にしているならみんなの相手をしてやりたい──昔そんなことを言っていたっけ。とはいえ、本当に言葉通りの真似をするようになるとは思わなかった。ぶれないなと感心すると同時に呆れてしまう。唇を湿らせてから、紅雀は渋々といった様子で口を開く。
「どういうって、まぁ、どうにも縁が続かねえってだけの話で」
「だっせ。ちょっと好みだからって適当につまんでっからそうなるんだよ」
「そういうわけでもねぇけどなあ」
「へえ。紅雀さんのカノジョ選びの基準ってどんなの? 知りたいなー」
「そうだなぁ……他人に優しい女かな」
「俺に、じゃなくて?」
「他人に優しけりゃ、たいてい俺にも優しいもんだろ」
「お前にだけツンツンしてっかもしれねーじゃん」
「そういうのもまた可愛いと思うぜ。つんけんしてても好かれてるかどうかはわかるしよ。そのくらいの方がかえって燃えっかもなぁ。口説きがいがあってさ」
 この言い草は、と思った。まるでつんけんされることなどめったにないと言いたげだ。
「……やっぱ誰でもいんじゃね? お前のストライクゾーンってめちゃくちゃ広い気がすんだけど」
 もはや女というだけで好みの範疇に入るんじゃないだろうかと思えてくる。そうでもなければ、こんな短期間に相手が変わることもない気がする。
 くるくると次から次へ相手を変えて、それで紅雀は何を得るのだろう。つかの間の快楽と温もりと、あとはなんだろう。たくさんの相手を知って、辿り着く先はあるのだろうか。
 まずありえないだろうが、島中の女を食い尽くしてしまったらどうする気なんだろうかと他人事ながら心配になってくる。またどこかへ行ってしまうだろうか。その前に女たちの間で諍いが起こりそうだが。
「一応あんだよこれでも。他にも繊細な基準がさ」
「せんさい」
 棒読みにしかならなかった。長く伸ばした前髪の内側を撫で、紅雀が自嘲めいた笑みを浮かべる。
「お前には言えねぇけど」
「はあ? もったいぶるなー」
 ──蟻にたかられる飴みたいだ。
 ふと、ウイルスの言葉が脳裏に浮かんだ。それも頷けるけれど──どちらかというと、紅雀の場合。
「……お前ってさ。チョウチョみたいな」
「あ? チョウチョ?」
「ひらひら飛び回って、蜜とか吸ってないと死ぬんだろ」
「なんだよそれ」
「好きにすりゃいいけど、ほどほどにしとかねーとそのうち痛い目見んじゃね」
「……、まぁ、気をつけるわ」
 沈黙が訪れ、蒼葉はすっかり泡の消えてしまったビールを口に含んだ。
 子供の頃の紅雀は、ただきゃあきゃあ騒がれ周りを囲まれているばかりだった。誰かと並んで歩いていたり手をつないでいるところを見ても、少し落ち込むくらいで耐えられた。ふたりきりのときは同じことをしてくれたし、自分だけを見てくれたから。
 でも大人になれば、手をつなぐだけではすまない。紅雀が誰かと寝ることが、蒼葉の中でどこか耐えがたかった。自分のそばにいないこと、自分以外の誰かを見ていること。愛すること。それを不満に思ってしまうことが気持ち悪くてたまらなかった。かといって、紅雀と寝たいわけではない。後先を考えずに過ごしていた頃、その場のノリで軽く男と触れ合ったことはあっても、紅雀とどうにかなる想像などしたことはなかった。
 そもそも、紅雀の目には女しか映っていない。男だとわかった瞬間から蒼葉は紅雀にとって圏外で、どれだけ大事にされていても幼馴染みの域を出ることはなかったし、この先も天地がひっくり返りでもしない限りそんな日は来ないだろう。想像のしようもないし、するだけ無駄だった。
 たとえひと晩だけでも紅雀に愛されれば、女は幸せなのだろうか。それはとても残酷なことなんじゃないだろうか。それとも、割り切って互いに楽しむのであればそんなものか。そんな風に考えられる時期が自分にもあったから、否定はしないけれど。
 でも俺だったら、と考えて、胸にすとんと落ちてくるもの。……ああ、そうか。
 紅雀に愛されるなら、それはずっと続くものであってほしい。一度寝てしまったら終わるような、触れたらぱちんとはじけて消えてしまうような、そんな関係にはなりたくない。いつまでも紅雀にとっての特別でありたいのだと、そこでやっと気づいた。なんてわがままで贅沢で、子供っぽい願望だろうか。
 でも──だったら、自分は男に生まれてよかったのだろう。紅雀の欲の及ばないところで幼馴染みとして、友達としていられるのなら、それが一番いい。別に恋愛じゃなくていい。そばにいられるなら。紅雀が羽を休める場所として自分を選んでくれるのなら。
 まるで恋の終わりみたいだと思った。やっぱり、あれは恋だったのかもしれない。同性の幼馴染みが初恋なんて笑われるだろうか。でも、あの頃の紅雀は確かに自分にとってはきらきらした星みたいな存在だったし、誰が恋してもおかしくないくらいにかっこよかったのだから、恥じることなんてないんだろう。
 このところずっと身の内に感じていた刺のようなものが少しずつ融けていく気がした。急に紅雀に優しくなれるわけではないだろうし、慣れないうちはきっとまた胸が痛むけれど、ともに過ごせる時間が積もれば、こんな感傷は思い出の中に埋まってしまうだろう。
 しばらく周囲のざわめきとお互いがたてる音だけを聞きながら杯を重ねたあと、何杯目かの升酒を飲み干した紅雀がふいにこんなことを呟いた。
「恋ってこう、気づいたらとっくに落ちちまってるってか、そんな感じすんだけどなあ。なかなか見つからないっつーか」
 ほどよく酔いが回ってきてぼんやりし始めたところで思いもよらない言葉が耳に飛び込んできて、蒼葉は目を見開く。
「……けっこう夢見てんだなー、お前。夢と現実が噛み合ってねーし」
「ほっとけ。そういうお前はどうなんだよ」
「お前には言えねーです」
「生意気」
 伸びてきた手に鼻をつまんで軽く引っ張られる。ふが、と息を漏らすと、紅雀がふっと笑った。
「なんか変な感じだわ。蒼葉とこういう話してんのってよ」
「ん?」
 鼻にかかっていた力が抜け、紅雀の人差し指が鼻筋を撫でて離れていく。
「お前さ、早く彼女作って結婚しろよ。俺がスピーチしてやっから。とびっきり泣けるやつ」
「どんなんだよ」
「蒼葉は四年生になるまでおねしょが治らなくて──」
「いらねーこと言ってんなよ! 別の意味でしか泣けねっつの!!」
 マイクを持つ手振りをしてからくつくつ笑う横っ腹に軽く肘を入れてやる。
「うそうそ、ちゃんといいこと言ってやるって。お前には、幸せになってほしいからよ」
「……なんだそれ。なんかカユいんだけど」
「ほんとにさ。──幸せになれよな」
「…………」
 まるで、そこに紅雀は含まれていないような言い方だった。他意はないのだろうが、自分たちはそれぞれともに歩む相手を探さなければならないのだと突き放されているようだった。
 そうだった。紅雀が島を出た日にも似たようなことを言われた。──俺がいなくても、と。そんなのは嫌だと言ってしまいそうで、ぎゅっと唇を噛んだ。
 優しく細められた紅い瞳を見返しながら、いつか、と考えた。
 いつか誰かには、幸せになろうとか、幸せにしてやるとか言うのだろう。紅雀が最後に選ぶのはどんな女だろうか。そのときには、ちゃんと祝福してやれたらいい。心から、お前も幸せになれよと言ってやりたい。
 大好きだった。紅雀に会えなければ、あの陽だまりの中にいたような日々がなければ、今の自分はいなかったかもしれなかった。誰かひとりでいい、このふわふわと足元の定まらない根無し草みたいな幼馴染みをつかまえていてくれる相手が見つかればいい。それがこの島でなくてもかまわないから。
「お前にスピーチなんか頼んだら、嫁さんがお前ばっか見てそうでやだ」
「はは。せいぜい主役の邪魔しないようにするわ」
 皿にひとつ残った枝豆を手にとり、さやから出した豆を口に入れる。結婚なんてまだまだ遠い先のことだと思っていたし、そういうこと頼むならミズキかなと考えていたのだが、紅雀も悪くないかもしれない。昔の恥を話のつかみにするのは勘弁してほしいが。
「つか、そっちこそ遊ぶだけ遊んで結局ひとりとかシャレになんねーからな。お袋さん泣くぞ」
「まぁ男だし、食い扶持も持ってるし、一生チョウチョもアリだろ。死ぬとき周りに手間かけねぇようにしときゃいいだけで」
「今からそんなこと考えてんのかよ。暗っ」
 お前いくつだよ、と問おうとして、はたと気づいた。コイルに目を落とし、タエの言葉を思い出した。もう一度コイルの日付を確認する。──8月19日。息をのんで、がばっと顔を上げた。
「……紅雀……、お前、お前さ、誕生日じゃん今日!」
「あー、まあな。そうだったな」
 空になったグラスをしなやかな指で弄んでいた紅雀がこともなげに答える。
 ──19日なら空いてる。今日の約束をしたとき、自分からそう言ったのだった。じゃあその日な。少しだけ間をおいて、穏やかな声が返ってきたのを覚えている。もしかしたら──期待させてしまったのだろうか。
「……あの……、ごめん」
「なんで謝んだよ」
「だってさ……大事な日なのに……」
 どうしてこんなことまで忘れてしまっていたんだろう。昔は毎年祝っていた日なのに。肩を落としてうつむくと、紅雀の指先がそっと頬を押した。それから労るように肩を叩かれる。
「思い出してくれたんならそれでいいさ。気にすんなって。わざわざ祝うような歳でもねぇしよ」
「馬鹿、何言ってんだよ。……なあ、もう帰んね?」
 いてもたってもいられず立ち上がり、紅雀に向き直ってぐいと腕を引っ張る。鈍い反応に焦れてもう一度引いた。
「婆ちゃんがお前連れて帰って来いって言ってたから、きっとなんかあるし。ほら、帰ろう。ちゃんと、お祝いしよう」
「へ? おい、蒼葉」
「なんか予定ある?」
「いや、ねぇけど……」
「じゃあ決まりな。ここ払うし」
 伝票を引っ掴む。歩き出そうとして振り向くと、座ったままの紅雀が気圧されたようにこちらを見ていた。
「なーにしてんだよ。早くしろって」
「……あぁ」
 タエに連絡しておこうかとコイルを見て、そこでまた気づいた。紅雀が今日会ってから今まで、女たちが近づいてきたとき以外一切コイルに触れなかったこと。そういえば、家に来たときにもほとんど見たことはなかった。
 ああそうか、と思った。
 こうしている間は、紅雀は自分との時間を大事にしてくれるのだ。昔と同じように。別の誰かのことを考えていたりするのかもしれないけれど、少なくとも一緒にいるのに誰かと連絡をとろうとするようなことはなかった。
 気を遣ってくれているのか自然とそうなっているのかはわからない。ただ、それならまあいいか、と思えた。紅雀が一日のうちいくらかでも自分のために時間を割いてくれることが、馬鹿みたいにうれしかった。もしかしたら──今でもちゃんと、紅雀の近くに蒼葉の居場所はあるのかもしれない。たったそれだけで心が軽くなるなんて、ずいぶん安いものだ。
「あ」
「?」
 ぴたりと足を止める。横を歩いていた紅雀が蒼葉を追い越しそうになり、半歩先で止まった。けばけばしい看板が立ち並ぶ繁華街の大通りを泳ぐように歩いてくる人々が立ち止まった自分たちに迷惑そうな視線を送りながら避けていく。紅雀に顔を向け、蒼葉は近くのビルを指差した。雑貨や日用品などが幅広く揃っている店が丸ごと入っている。
「俺、婆ちゃんに買い物頼まれてたんだった」
「へぇ。なら寄ってくか」
「すぐすむって。蓮いねーから、ベニに帰りのルート検索さしといてくれよ。早く帰りたいし」
「へいへい。じゃ、ここで待ってっから」
 出入口で別れようとしたところで、蒼葉、と声をかけられた。
「お前、今日機嫌いいなあ」
 何事かと思えば、ベニを手のひらに載せた紅雀がうれしそうに笑っている。女に見せるのとは違う、あけっぴろげな笑顔だった。ただでさえ下がり気味の目尻がさらに下がって、男前はどこへやら。
「……今日、休んでるだけだし!」
 本当にこいつはいちいち余計なことを。むっとして背を向けると、噴き出すような声が聞こえた。無視して店内のフロアマップを見る。目当てのものが置かれていそうな売場の階数を確認してからエスカレーターを駆けのぼった。踊り場で反転しながら、今からしようとしていることをすでに後悔し始めていた。
 絶対に勘づかれるし、絶対絶対恥ずかしい。だから適当なのでいい。特別っぽさなんてかけらもない、ありふれたやつ。
 なかったから買ってきただけだし。吸い殻の始末さえしてくれりゃいくらでもどうぞ、そんな感じで渡せばいい。そしたらたぶん、あいつはさっきみたいに笑うんだろう。あーあ。
 想像するにつれ、頬が火照っていく。耳まで熱くなってきてやっぱやめようかなとも思ったけれど、足は止まらなかった。
 明日からはまた、紅雀に対して腹を立てたり呆れたり胸が騒いだりすることがあるだろう。それでもきっと、仕方ないのだ。自分の関心が紅雀へ向かっていくのは。そんな風にできてしまっているから、今さら拒絶することも離れることも考えられない。離れたくはないし、そばにいたいなら、気に障るところがあってもどうにか受け流すしかない。そう覚悟を決めたら、どこか胸がすっとした。
 とりあえず今日、それを渡すときくらいは素直でありたい。紅雀には久しぶりに伝える言葉だからぎこちなくなってしまうかもしれないけれど、ちゃんと目を見て、笑って言おう。──誕生日おめでとう、と。